テキスト2007
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ふしゅんさんフチ斗ンリゾート−』まや(第三種郵使物認可1985年H月お口)桑原専慶流いけばなテキスト訪問万2007年3月1日発行(毎月l回1日発行)桑原専度流家元発行というアニメをやっている。いけ上がったのを見ていると、そんな感じがしてきた。いつも見ている順之助に「これ、おじゃる九」というと、そんな感じがしないでもないと云ってくれた。牡丹は季節外れにも手に入る普通の花になった。とり合わせを考えて時々使ってみたい。花材牡丹オンシジュlム花器小型扇半花恵宮下善爾作)私としては富春山のことを本で知るだけでなく、実際に見に行きたくなるのは当然なことである?一月号の写真①は、厳光釣台に行く途中の風景である。元時代に黄公望という文人がごニ四七年に描いた「富春山居間」という中国の国宝級の山水画がある。今から七百年ほど前の絵だが、その頃から富春山の風景はあまり変わっていないように見える。そしておそらく厳光が生きていた後漢初期(二千年前)と殆ど同じような京観だったと田宮ノ。江南の景色は中国南西部の叱立する山水を描いた水墨画とちがって「富春山居図」はもっとおだやかな山々で、流れも悠然として幅広い。まん丸な花NHKで、子供向けに「おじゃる丸」仙粛彩歳(棲子宇品フハv。むりょうろ〈ふりん、.・ヲ?滞在したホテルは「富春山居」と云うが、それは「富春山府関」に閃んでつけられた名称で杭州市の郊外の広大な敷地に建てられている。杭州は一一三八年に南宋の都となった。私が中間史の巾で好きなのは春秋戦国時代(紀元前八世紀1紀元前三世紀)と南宋の時代である。ご存知のように宋が金に攻められて都は揚子江の南、杭州に遷り南宋とよばれている。その時、華北の貴族や文人、富裕な商人達も南へ移る。そこから南宋の文雅な時代が始二月号続き)江南は山一旦かな地方である。北の都より気候もおだやかで文人達ものびのびした気分で四季を送った。写真⑦②(二月号)丙湖の東岸、湖の向かいの山に沈む夕陽の美しい都である。王宮は東岸の南寄りの山裾に建てられていた。都の特等席である。文人達の文章は流麗になり、詩は典雅で人の情を濃かに写しとっている。現代の中国料理の基本的な味わいの育ったのもこの時代であり「首7梁録」や「武林話事」を見ると定価五−一五円22u一\\当者g−wcgω当時の都の年中行事や、街の中で売られている品々、お洞の名前まで書かれている。二、」一卜年前までは南宋時代の街の悌が残っていたそうだが西湖の夕景は変わっていない。この時代、文人達だけでなく庶民の聞からも多くの美しい物語り、不思議な伝承がまとめられてゆく。求めいていた内い中間の農村の悌を残しているという龍門肯鎮という所へも富春山の帰りに寄ってみた。おそらく十九世起治時岱街のままなのだろうが入村料だけで細々と暮らしているような内村である。⑬⑫この頁のカットに使ったのは、上海博物館にある問千数百年前のE製の人形である。4ri白学の本のpl具では見ていたが、実物に出会えたわけである。私はくたびれて全館まわれなかったが健一郎はお腹が痛いのに見たいものは全部見てきたそうである。そしてこの人形の玉製の小さなレプリカを買っていた。今度の中凶旅行で一番大切な買い物だったそうである。杭州での良渚博物館、所江省博物館と十日代中国近物を息と深くついてまわってくれたことを感謝している。注・「夢梁録」、「武林信事」ともに南宋主都杭州の市中記。「水誹伝」は宋が背以。「白蛇伝」は杭州が舞台になっている。宮川岸「ωωぬDRo−−noヨ緒に興味a

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