テキスト2007
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22U一\\者名〈〈・一内しんせん州凶}戸(第一極郵使物認可1985年日川お日)桑似点度流いけばなテキスト悶け2007年2川l日発行(鮭川l川!日発行)桑似存度流家元発行して中国の古典に通じていた上に、日本の古典文化にも明るかったのを行聞に読みとることができる。だが古典に問執せず自らの生きた十七介世ん一、紀、をも愛していたようである。その端的な表れとして、牡丹のいけ様に関して「昔は牡丹は貴重な花材、だったので、立花では胴に短く使ったが、今では多量に栽培されるようになったので、私は牡丹一色の立花を挿す」といって大きな牡丹一色の立花園を遺している。「立花時勢粧」に出てくる作者は医者をはじめ町衆の名、ばかりである。初代としては、当時の仕来りに縛られた宵廷人や大寺院や大名家を相手にするより上層町衆に向分の立花を伝え、「都林泉名所図会」にも記録されているように、西本願寺の対面所で一間の立花展を町衆(市民)に公開している。その立花展は京都の年中行事の一つとして人気が高く会期中は連日人出で混み合ったと伝えられている。現代の私達は初代の立花を創作的、或いは個性的と評しているが、それは初代が好んで身につけた教養、そして興味深く見守った四季の風物、植物の山生(生態)から円然と生まれた作風だと思う。殊更創作しようと苦心したものでもなさそうだと私は思っている。巌光・冨春山・仙渓という関連を知ってから、随分長い間行って見て来たかったのではあるが、共産党が強く支配している頃にはどうも出掛ける気にはなれなかった。定価バ−一五円衛兵が傍若無人に知識階級を吊し上げ、古い仏像や寺院や道観(道教の手院)を設す様「を今でもテレビで放映されているが傷ましい光景である。発展し、香港がイギリスから中国に返還され、上海は背の黄浦江沿いの租界をそのまま残しながら大きく経済中枢として変貌してきた。な目にムちつこともなさそ、つだと富春山行きの計岡を立てた。冨春山は杭州から南へ七十キロほどの位置にある。道に一昨年、冨春山居というリゾートホテルが建った。色んなガイドブックにも載りはじめている。広い敷地の中にはゴルフコ1スもあり、建物は中間風な良さをとり入れ、部屋も広く設備も整っている。着いた翌日に冨春山に出掛けたのは前文の通りである春を待ちわびるように咲く緋がある。晩秋の山茶花が満開になりつつある頃、白佐助が咲き始める。と移りゆくような優しい彩りの権を雪柳と合わせていけてみた。春を呼ぶ花といえば椿楼子毛沢東が政権をとり、文化大革命、紅だが深別が新産業都市そして驚異的にこれならもう出掛けても、それほど嫌有り難いことに杭州から冨春山へ行く。(つ一月号に続く。)私の庭でも厳しい寒さに耐えながら、紅色から白へ、そして薄紅色の曙椿へ花材(曙椿・薮椿・向玉椿)花器方形陶花瓶(宮下善爾作)ct弓wo−−nOBωEvωぬコ雪柳椿J

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