テキスト2007
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ふ1ゅん仙粛彩歳私が家一冗を継ぐ頃、桑原専底流の初代が選んだん品春軒という軒号の由来がわからない。当時の文人のことだから何か中問の古典に因んだ名前だろうと見当をつけて探しはじめた。色んな中国の占典を読んでいる間に、「抱木子」という問世紀頃の本に「山品存」という理想郷らしい地名が出てくる。だが具体的にどこなのか、そこでどんな事があったのか書かれていない。勿論普通の漢和辞典にも冨春の項はない。そこで凶書館なら何か手がかりがつかめるかもしれないと、暇を作って全部で卜巻ほどある議和辞典を調べてようやく、[冨春]の項を見付けた。冨春H山名。漸江省桐底懸の西、と出ている。巌陵山ともよばれているが、それは後漢の殿下陵(m惇冗)の隠柄地である。巌光|冨春山!仙渓巌光は後漢の光武帝のμ主久である。漢はご存知のように、王奔のクーデター(纂奪)によって一時断絶するが、主室の一族の劉秀が壬葬を敗死させて光武帝として帝位につき、漢帝同を再興する。そして学友でもあり、親交を結んでいたm辱冗を探し求めて宮中に丁重に呼び寄せ、皇帝のブレーンとして政務を補佐して欲しいと頼むが巌光は辞退して冨春山に川ってしまう、と後漢詐に記されている。冨存というのは級光の隠柄した山の名前だったのである。それなら李太内の詩や、他の古典でも読んだことのある人物と風景である。厳光という人は、光武帝の親友であったばかりでなく、人柄も高潔で学識も丘かな人である。後漢王朝の創始されたのは紀元二五年である。常識豊かだった流祖は巌光の逸話を知っていたと思う。そしておそらく厳光に崇敬のおうもうさんたつ2

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