テキスト2006
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仙粛彩歳料理の本には教訓的に「心をこめて」とい、っ岳山味のことがよく書かれている。料理は人にも出すものだから当然心をこめなければならない、とは思う。だが一体どうすれば心がこもるようになるのだろうか。考えてみるとよくわからない話である。心のこもった料理とは、ただ誠意だけのものではないのである。経験を大切に記憶して物の使い方をよく身につけ、それを上手に生かすことができるように円々自分を訓練してゆくことから始まると云っていい。だからつ心をこめる」ということは、かなり難しい知的作業なのだが、私達はそれをそんなに窓識せずに毎日誠実に暮らしている。だが時々、心を立ち止まらせて周囲を見まわして、その日の温かさ、街の音、空の色をじっくり眺めてみる、といった何でもないような日々の重なりの中で心は成長を重ねてゆくものなのである。心の成長は目に見えるものではなく、色もMMも計れない。だがつ心をこめて」という必要が起きたとき、誰でもそれに間に合うだけのものは持っているのである。その場に合ったものをひき出せないと、場違いになってしまう。心をこめて、という言葉を「気持が大切」とだけ考えてしまうと、出来上がりはどんなものになるだろう。「気持」には、何をどう使えばどんな味になるのか、人々は、作られたその品にどんな味を夢克ているのだろうかと思いめぐらす「知性」も含まれていなければならない。料理のことを書いているのだが、いけばなでも、私は自分が表現してみようとする、ある自然の一蹴は、誰にでも通じるようなものであり、親しみゃすく、その場にすんなりと納まることを目指していけている。宙に浮きたくないのである。六月中頃に国震崩を迎える笹百合今年も待ち遠しく、何度かいける機会を得たが、作例の笹百合が今年最後かなと回心うととても残念な気持。先日知人から笹百合を種から育てた苗を頂いた。笹百合は生育が非常に遅く、一年目は一枚葉がやっと発芽するだけで、開花に至るまでにはまだまだ七1八年かかるという。そして無事に成長して咲く花はほんの少しらしい。家の庭で八年間もいい環境を確保出来るとは考えられないので、花フジさんの比叡山の畑で育ててもらうことにした。やっと咲いたのだから、最後の最後まで大切に見守りたい。花材深山南天笹百合杜若花器青練込陶鉢待ちこがれて桜子7

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