テキスト2005
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すそのあつら現代のことばタクシーで、御池通から室町を下がって帰宅するとき、運転手さんの五人のうち三人は、きまって「このごろ室町通はあきまへんな」と話しかけてくる。町並みは随分変わった。戦前から高度成長期までは、町家造りの呉服問屋の店が続く通りだったが、昭和「きもの」の今桑原仙粛[京都新聞2月辺日]四十年近くからピルに建てかえられ始めた。かえられたピルが、次々と解体され角通から、まだ中学生で、妹の友達だった素子は、郊外の私の家によく遊びに来ていた。時々着物を着てくることもあったが、普段着として気楽に自分で着ていたようである。ところが、ここ数年景気よく建ててマンションになっていっている。昭和二ト年代、古い町家の並ぶ六そして生涯着物が好きだったらしく、自分の好みの着物を上手に着こなしていた。子供の頃から薪慣れていたからそうなれたのだと思う。何と云っても、「きもの」は日本の民族衣装なのだから、そうあって当然な話である。ふり返ってみると、着物は現在のように高級品が主流ではなく、普段着から働き着まで随分幅と種類が多かった。京都では手描き友禅から西陣織の帯、御召から銘仙。素材も絹だけでなく、木綿や麻、羊毛も使って日本各地で色々な着物地が作られていて、様々に利用されていたかす。りお手伝いさんは銘仙か木綿の緋を者て、長い廊下の雑巾掛けをしていたし、母も着物に割烹着で台所仕事を不自由なくこなしていた。着物は不便だというが、日常生活には差し支えてなかったのである。考えてみれば、昔の侍達は着物でチャンパラをしていたのだし、私も小学校の頃から剣道をしていたが稽古着も一種の着物なのである。そして剣道着は未だに昔のままである。民族衣装は、それぞれの民族が、長い歴史をかけて、その気候、風土、生活条件に合わせて美しく作り上げてきたものである。インドやアラブの人達は未だに民族衣装で国度議に出席しているし、背広、これもイギリス的なヨーロッパの民族衣装なのだと思、っ。着物は実用性と共に、着る人と、作る人が一緒になって、日本独自の缶彩盛見と材質感を歴史をかけて育んできた魅力的な衣裳である。実際に私も、母が着物を説えるとき、よく横で見ていたが、例えば絵柄の一部分を朱色と注文するとき、朱色にも淡い洗朱から朱色、くすんだ錆朱までの何段階かあって、どの程度の朱色にするのか、呉服屋さんとの言葉のやりとりだけで通じていた。これはやはり洗練された文化の一面なのである。おかげで私も一口に赤と云っても朱色、緋色、紅色と幾系統もあって、そのそれぞれが系統に従って何通リにも変化してゆくことを知った。日本の文化のすぐれた一面を飾る「きもの」が何故あまリ着られなくなっただろう。着物姿で一00メートル競走の新記録は出ないのは確かなことだろう。だが普段着としての実用性はなくなっていない筈である。専門家に着付けしてもらわなくても着られる若方と使い方は昔からあったのである。「きもの」は多分高級化しすぎたのだろう。裾野をなくして着物はあまり売れなくなったのだろうか。伝統文化は常にそんな危、っさを抱えているのかもしれない。花だそうである。原産地は地中海沿岸部の南ヨーロッパから北アフリカで、尚志但はトラケリウムで桔梗科の多年草である。円本に移入されたとき、花色が淡く柔らかなタ霧を思わせるよ、つな姿だったのでタ霧草とよばれた。だが作例に二色使ったタ霧草の色の濃い方は暗紫色である。これはタ霧草とは呼びにくい。暗闇草と云った方がよさそうである。花屋で、濃紫色のと淡いピンクの二種が並んでいた。興味を感じる配色なので買ってはみたが、とり合わせの難しい花である。この配色にも使えそうな花としてスカピオサ(松虫草)の白から淡紫色、赤、赤紫の花を選んで、タ霧草のマッスの巾に見え隠れにそえてみた。花器も淡紫紅色を選んだのだがそれだけでは形にならないので、白斑入りの松阪羊歯をそえたのだが、タ霧草、スカピオサ、淡紫紅色の花器に対して弱すぎたようである。後日、松阪羊歯をとり、花器もとり替え、白い花弁で底が濃赤色のカトレアにしてすっきりした。花材タ霧草(トラケリウム)西洋松虫草(スカピオサ)松阪羊歯花器淡紫紅色コンポートタ霧と暗闇hz霧草は大正時代の末頃謹来した〈7頁の花V仙粛7

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