テキスト2005
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思い返してみると、宗教的な行事のような気がする。ものの味が少しわかるようになった大学生の頃は毎年母の料理を手伝っていた。父は配膳台の横に座って楽しそうにつまみ食いしながら盃をあけていたし、幼かった妹は何かさせてもらおうと背のぴしながら調理台のそばを離れなかった。私が家でお重を作るよ、つになると娘達も幼かった妹と同じような興味を示し始めた。年に一度だけでいい。仕事をはなれて家族の家族だけのためのお正月があってほしい。年に一度だけでいい。お互いに改まった気持ちで挨拶し合いたい。無宗教で暮らしている私には、お正月だけが祖先を想い、子供達の成長をたしかめ、孫達の幸せを心から祈る日なのである。娘達が小さな時分、私たちは夫婦で三卜一日まで稽肯に追われていた。仕方なく、お正月は皆で旅先で迎えた。いいホテルや旅館を選んで出かけて行くのだが、何となく位、びしい。万葉集の家にあれば旅にしあればというほどの佐びしさではなくても、それぞれの祝膳にお重、屠蘇器、煮物の鉢などが並ぴ、孫たちまでかしこまって「新年おめでとうございます」と挨拶する家での元旦とは大Lひ椎の葉に盛る笥に盛る飯を草枕違いである。別にそ、っ仰々しい料理でなくてもいい。円分が親から伝えられた味を汗供達に伝え、それがどんな歴史を辿ってきたかを感じてもらえればいいのである。伝統芸、或いは家業と云ってもいい。それはただ伝えられてきた技能を教えこむだけのものではない。質素でもいい。ただその技能は生活の美しさによって磨きがかけられてゆくものではないかと思っている。お正月はわたしにとって、家族を、そして家元という一つ切家的なものに対する自分自身への接の折り日なのである。京都新聞十二月二十一日掲載5

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