テキスト2004
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LA槽んおくて想いおりおり時折自分の書いた文章を読み返してみることがある。二十年ほど前にこんなことを書いている。先代専渓(十三世)が、同分のいけた古いいけばなの写真を見ながら「いけばなというものは、なかなか上手になれんもんやな。十年前と比べて、ちっとも進歩してない」と云っていた。実際その通り思っていたのだろうが正直な言葉である。私には先代のいけばなで、写真を見なくても、イメージとして心に残っている花がいくつかある。それは砲や技術の手本としてではなく、そのいけばなを見たときに受けた喜びの感覚として、しっかりと未だに残っているのである。そしてそのイメージは時と共に美化され続けていく。それとは別に、私のいけた花にも良かったなと思い浮かべられるのが少しだけある。そしてそれも心の巾で美化されていく。何年かに一つしかないのだが、そんな花がいけ上がった時の喜びは何度でも味わいたいものである。日分の記憶のために撮っておくのが写真なのだが現物を実際にいけたり見たりしたときの感党までは表れてこない。次にこう書いている。花のとり合わせを考え、花器をえらび、心の奥底にひそんでいる仙薪イメージを明確な形にあらわしたいと努力を続けるのだが、まあまあという花はいけられでも、自分の納得できるいけばなは、そう度々いけられるものではない。よく考えてみると、一度いい花がいけられると、その花を基準にしてイメージだけが先行してしまうのである。いい花をいけられたのは、その時の自分の心理状態、体の調子、それにいけようとする花材が意識の底で自分の思いに合っていた時ではないだろうか。そして、腕より頭の万が先に進むからこそ、長年花をいけ続けてきた父にも、そんな気持がおきてきたのだろうし、それでもいけ続けていこうとする楽しみの源泉も、その辺にあるのではなかろうか。と結んでいる。日本には四季を通じて様々な花が咲く。変化に富み、恵まれた風上だとは思うが、その移り変わりについていくのも大変微妙な受けとり方が必要である。一つの花でも早咲きから最盛期、終わり頃の残り花とでは持ち味も違ってくる。丁度野菜や魚のようにはしりと旬、晩生では味が異なり調理法も変えるようなものである。多彩に季に合わせながらJH分の想いを花に託そうとするいけばなにはその人、その人の生き方が写し出されてくるようである。11

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