テキスト2004
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さ・えずなか声らすで噌っているが、暫くして上空ひとむかたちどならまなプさかのぼ−』噌勺カキyパタ早起き鳥二十年ほど前に書いた随筆に一一一月のことを「三月に入ると夜が短くなって、明け方、庭が大変賑やかになる。まだ暗いうちから小鳥が一群れ飛んでくる。ひとしきり雀のようで烏が鳴く頃には、また別な小鳥がやってくる。毎朝何種類もの小鳥が庭に訪れるが、机の前に座っていても、声だけで群の違いがわかる。そして毎朝聞き続けていると順番も一定しているようである。」当時「花ごころ味ごころ」やテキストの原稿書きに追われて三晩くらい徹夜の続くことが多かった。元々朝型の私が夜型に変わったのはその頃からのことである。その上、お酒をやめると夜が、つんと長くなる。長くなった夜は活字を見ることに使う。お陰で色んな面白いことを知るようになったが、もっと早くからそ、っすればよかったのにと、アトノマツリを悔やんだりしている。アネモネは早春の花、秋に小さな球根を植えると三月に咲きはじめるが、切花用の栽培品種は十月から四月まで開花が売られている。麦も早春に季節感をこめて使われる花材、だが、その多くは大麦ということである。ジゴベタルムは南アメリカが原産地の蘭で、花弁と苗互片は淡緑色で赤褐色の斑紋が入る。作例のジゴベタルムの唇弁は色と形から見て、ジョン・パンクスという品種だろう。花材麦喰わず芋の葉アネモネ(薄紫・赤・紅白絞り)の温度が僅かに変化しただけで私たトルコブルl花瓶尽都新聞『現代のことば』掲載京都には、初冬になると越前岬(福井県)から水仙(和水仙)が送られてくる。私達はそれを水仙の初花として、その姿をよく見つめて丁寧にいけている。まだあまり背は高くない。花は葉よりも低く、岬の傾斜地を吹き上げてくる日本海の寒風から、葉が花を守っているような咲き方である。その時期、日本のいけばなではそんな姿を象っていける。節分を過ぎると花は元気よ/ふ莱より高く伸び上がりはじめる。いけばなもそれに倣って形を変え、より深水仙をいけながら仙渓花器ジゴベタルム(淡緑色に赤褐色)く季を心に刻みつけようとする。反対にいけられた水仙の形の変わりょうから季の繊細な推移を教、えられることにもなるのである。それが日本のいけばなである。歳月をかけてできあがった古典的な花への眼差しは型にはまったものかもしれない。だが三ヶ月の冬も、十二月は十二月、二月は二月で趣がちがう。二月らしい冬であってこそ、次に巡ってくる早春の萌しを喜(仙渓作)べるのである。もし自然が創作意欲を発揮して今と違う四季を与えてくれたら一わ体ずどうなるのだろう。地球ちの生活は脅かされるのである。四季は変わらないでほしい。そして四季に従って生きていたい。日本のいけばなは、外国のフラワー・デザインとかなり異なっている。花を色と形で構成するというだけのものではなく、花の芽生えから枯れるまでの季節の推移を見つめ、その姿をいけばなとしていけ、いまその季に自分の在ることを感じようとするのである。一体日本人はいつの頃からいけばなとしての花の姿をこんなに深くみつめるようになったのだろうか。縄文時代まで遡れるのかもしれない。万葉集の時代、平ム女時代にもその源泉は求められるのだろうが、いけばながいけばなとしての形を整え始めるのは室町時代からである。その時代に立花という形式が京都で誕生する。ちょうど園芸が普及しはじめる時期であり、観賞上の草木の生態にも知識が深まってくる。そして江戸時代になるといっそう探求心が強まる。江戸時代人は貴賎貧富の別なく園芸好きだったらしい口そんな時代に京都の大寺院などで毎年恒例としていけばな展が催されるようになり、町人も農民も大勢観覧に集まったそうである。さまざまな人の目に触れるいけばなは、ただきれいなだけではすまなかったのではないかと思う。最初に書いた水仙の季節の推移を精密にいけ分けるという例も、庶民層にまでも園芸が普及していたという社会環境の成果とも言えそ、つである。私自身もそれを実感したことがある。四季咲種の杜若の晩秋のいけ方として、葉先の枯れ始めた葉をまじえていけてみせたところ、受講者の古老が「家元、わしの庭の杜若の葉はまだ青々しとるぞ!」という。「なるほど、そうかもしれないけどもう一度よくご覧なさい。それに先枯れした葉をいけまじえてこそ晩秋の杜若の風情が出るのではないかな」。その後古老は枯れ葉をいけまじえて満足している。教える側と、教えられる側とが持ちつ持たれつ植物の季節を見つめあってきたのが日本のいけばなであるD一尽都新聞2月6日働夕刊より転載あ7

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