テキスト2004
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たっぷりといける仙渓作大切なお客様を迎えるために、玄関の聞の正面に、水仙、木瓜、椿をいけた。部屋の外まで水仙の甘い香りが運ばれていく。水仙は十五本はいけただろうか。これだけの本数をいけることはめったにない。広い水盤に砂利を敷いて平らにしておき、そこへ大きな剣山を三つ置いていけている。日頃、京都へは北陸の越前から水仙が来る。京都人の好みにあわせて、よく締まった短めの水仙が多いようだが、ここでいけている水仙は長いもので八十Yもあった。これも越前の水仙なのだが、長い業は葉先までぴんとしていた。これだけの本数をいけるとなると、短い水仙では塊りになってしまうだろう。後ろ寄りに水仙の空間を広くとっておき、木瓜の枝は前方へ三本かなり長く張り出している。写真で右に二本伸びた木瓜のうち、上に見える枝は後方へ出している。木瓜を剣山にしっかり止めてから椿をいける。椿は花を目立たせるため、余分な枝を切っていける。葉には霧吹きでたっぷりと水をかけてからタオルかティッシュで汚れを拭き取っている。最後に水仙を枝の隙聞を見付けて前から後ろへ挿していく。たっぷりといけられた花からは、大らかな季節の表情が感じ取れる。ノ月に亡くなった京都の華道家、桑原素子さんは、さっそうとしたスーツ姿と、指先の鮮やかなマニキュアがいつも印象的でした。でも長女で料理研究家でもある機子さんの取材にご向宅を訪ねると、素子さんは地味な服装で庭木の手入れを一心にされていました。生けた花を、円以後の最後まで美しく見えるよう心も砕いておられました。小まめに水を替え、茎を少しずつ切り、やがて寿命が近づくと、水を張った器に茎を切りとった花や花びらを浮かべる:::。命が尽きるまでいつくしむ。そんな花への姿勢が美しい方でした。文・石村綾子記者新聞川月初日例記事毎4

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