テキスト2003
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人間国宝・清水卯一さん講演会滋賀県志賀町に窯を築く清水卯一さん(打)とは、お嬢様たちが桑原専慶流師範でもあるので、大変懇意にさせていただいている。紬薬に酸化鉄などを混ぜ、色の変化を出す鉄粕陶器の技法でお年に人間国宝に認定された清水さんが、このほど滋賀県立近代美術館(大津市)で講演し陶芸の道に入ったきっかけを語られた。京都市東山、五条坂の京焼陶磁器卸問屋に生まれたが、日歳で父親が急死し、家業を継ぐために商業学校に通うことになるが、簿記やそろばんが性に合わない清水さんは、その頃に、将来を左右する運命の人に出会うことになる。それは裸電球の長屋でろくろをひく男だった。土がすうっと査の形になっていく。「すごい」と思つた。それから学校へ行くふりをして彼のもとへ通う毎日。結局、まわりの反対を押し切って陶工になる道を選んだ。清水さんは、皆から「泥テツ」と呼ばれる無名の陶工との出会いがなければ、陶芸家としての今はな京都で江戸時代から続く生け花の桑原専問底流、桑原和則さん(位)、慎子さん(必)夫長日京都市中京区Hらが5月末、ドイツ北部の日本文佑を紹介する施設で、生け花の公開生けこみをしてきた。かつて東ドイツだった地域。ベルリンの樫が崩れ、資本主畿が押し寄せた現地では、お金だけに左右されまいとする人々の思いを強く感じたという。リンから北ヘ約180J離れいと振り返る。戦争で焼きものどころではなくなり、泌テツさんは故郷の三重県に帰った後消息がわからなくなった。わかったのは清水さんが人間国宝になったお年、彼はすでに亡くなって、た。やっとの思いで再た人口500人のトlデンドルフ村にある館「シュロスミツコ」。京都在住のドイツ人画家ハインリヒ・ヨハン・た。風で秘が渡打つように、ラデロフさんが、日本文佑を紹介しようと、地域の人たちの協力で古いMm般を改修し、m年に開館させた。その緑から、今回の公開生け込みが実現した。花瓶や剣山などはほとんど日本から持って行ったが、花は現地で咲くものを使った。和則さんが選んだのはジャーマンアイリス。訪れた人たちからは、花の配位の仕方など、哲学的な質問が多かった。中でも村長のウォルフ・袈鰐を村人から感じた。ディlタ1・ミッテルシユタツトさんは、完成した生け花を見て、和則さんにこう的ったという。「子どものころ、学校の先会し、泥テツさんの墓前に自分がつくった湯飲みで酒を供え、感謝の気持を伝えることができた。清水卯一さんは右半身がやや不自由になられた現在も、精力的に作陶を続けておられる。益々の御活躍をお祈りいたしております。生が麦畑で持を朗抗してくれ心に大きな被がやってきた。その感覚を思い出しました」資本主舗の波は、村の周辺にも押し待せていた。働き手は旧西ドイツ地域に流れていく。近隣の都市にある古い日間敷は大資本に口われ、ホテルも他つ。もうけ中心の利己主識に流されたくない:::。そんな声を耳にしながら、一行は「自然とともに、ゆったりとした持らしを大切にしたい」との食事は質紫な感じがしたが、よく考えてみると、ぜいたくな内密だった。宿泊先の明食には、主人が焼いた白いパンに地卵、手作りジャムが並んだ。金では口えない挫高のごちそうだつた。和則さんは「生け花は、自然の美しさを形にすること。人々の界らしぶりから、その原点を教えられた気がする」と話す。来年もこの地を訪れたいという。桑原夫妻、独で生けこみ朝日新聞7月6日(日)にカラーで掲載@生けこみをする桑原和則さん@「シュロスミツコ」=ドイツ・トーデンドルフ村で(桑原さん提供〉8

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