テキスト2003
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tわゆるレモンリlフを効果的に和則近年よく出回るようになったレモンリlフは、北アメリカ西海岸沿岸地方に分布する榔濁科の常緑低木で、丈夫で艶のある葉が美しく、葉のない洋花などに葉物として加えることが多い。短い枝でしか売られていないのと、葉の付き方がまちまちなので、足元に添える程度の使い方になりがちだが、数本の小枝を重ねて使い、緑の茂みをつくることで、花型を構成する主役にすることができる。レモンリlフの葉は椿の葉のように捻って向きを変えることができ、茎は携めることができるので、葉が下向きにならないように、枝ずつ丁寧に止めていく。鮮やかな黄色のミモザを短く加え、カーネーションは濃い赤色、淡い緑色、オレンジ・ピンク、淡いグえている。花器はオレンジ色陶コンポート。レl・ピンクの四色を最後に挿し加最初にシlボルトのことについては知っているようで、実は知らないことの方が多いと書いたが、最近読んだ、大場秀章氏の著書で、その頃日本がヨーロッパ人の目にどうとらえられていたか、そして日本人がどのように対応していたのか、あらためて知ることができた。のは一八て三年。徳川幕府の末期で、その四十五年後、日本は明治維新を迎える。日本の政情は不安定になりかけてはいたが、、学問、芸術の面では所謂化政期(文化・文政年間)とよばれている文化の澗熟期で、ヨーロッパの貴子文明に対する知識水準も、二百年も鎖国していたのにかなり高かったということである。先週テレビで、江戸時代の職人は見本さえあれば、どんな舶来品でも、一年あれば製品化してみせると言っていたそうだが、それは事実だったのである。はオランダが日本との貿易で莫大な利潤をあげており、それを維持拡大するため、もっと日本をよく知る必要から派遣された。円本との交流のためには日本の熱望する西洋医学がその手段となるが、シlボルトはすぐれたドイツの医学者であり、その上博学な人で日本研究には得難い人材だったのである。シlボルトがはじめて日本に来たシlボルトが日本にやってきたのそしてオランダは西洋医山千笠?える見返りに、独占的に得るものの目算を大変大きく見込んでいたらしい。医学者としてシlボルトは日本に貢献しているが、当時の日本は中国から学んで、独自にも発展してきた本草学から近代の植物学へ脱皮しはじめる時代でもょあうあっんた。実際に宇田川格庵が西洋の植物良子の存在を知り、岩崎濯園が日本最初の植物図鑑であるともいえる「本草図譜」を作っている。そしてシlボルトは日本の植物学者達とも交流して日本の植物の自然分布や生態、栽培に関する知識を吸収している。彼は医学者である上にすぐれた植物学者でもあったのである。付け加えておくと、化政期には従来の本十景子から植物学への移行期ということで、いけばなにも植物の生態をより深く理解する気運がたかまって、門然の再現が一層敏密になった時代であるともいえるのではないかと思う。一八一三年十月に来円したシlボルトは日本地図の圏外持ち出しの件で一八二九年十月に日本を追い出されるが、その六年の聞に多くの日本の植物を、生態を研究した上でオランダに送っている。紫陽花が最も有名だが、彼が送った植物の多くは、ヨーロッパ中央部でも露地栽培できそうなものが多かったそうである。(以下次号)シlボルト仙渓5

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