テキスト2001
104/146

みも町蔓つるう梅めdbrs擬龍り謄んどう花器白磁花瓶花型垂体副流し実物花材は一般に重量のバランスをとるのが難しい。この作例でも副の枝が右にのびているので重心は花瓶の口より二十代ンほど右に寄る。そのため物理的なバランスがとれるように真の枝先は花器の中心線を大きく左に振っている。蔓梅擬は何度いけても前にいけたのとは全く違った形になるのが楽しみと云える。生花の内容に就て(五)昭和十一年十三世桑原専渓訳もなく秘密にするその教えの本質をも十分検討せずしてこれを秘密すべしと考えるのは、その本来の意義を誤まった考え方であります。一般には秘密すべき教と解釈され易いのでこれは大いに訂正し認識を新にすべきだと思うのであります。然しこの重要な教えたる教義をなにが故に軽々しく教えないかと云う点に問題があるのであります。あります。何故と云えば習ふ人達只だ流儀の重要事だから簡単に教えられぬと云うのみの話ならば、質に根底の薄弱な意味でありまして、何故秘戴すべきかと云うことを本質的に考えねば、もう一つ納得の出来ない事であります。花道に限らずどんな芸術にありましでもそのものの至上の境地に至るまでには並々ならぬ研究と鍛錬とを要するものであります。書きものを見たり、人の話を聞いたりして、それのみでは決して優れた芸術を作ることは出来ないということは申すまでもない。ことに絵画や彫刻や挿花や音柴のやうな質際の技巧と考案とを結んで芸術とするものは、百の理論よりも一つの賓際に当面して身を以って研究し血のにじむやふな苦心を続けねば到底優れた作品をなすことは出来ぬものです。音集の音譜が尊いのではなく、種々な集器から流れ出ずる音響の美しさが尊いのであります。生花は生花の絵画や生け方の書物が尊いのではなくて賓際花器に挿け上げた作品が尊いのであります。で、これ等の{貫際の技巧や手法を教える場合、その師匠の人の苦心惨臓の結品である完全なる研究の所謂芸術のコツが賓に尊いので、これを門人達は授け教えられ或は門人の人達の研究に対して重要なるヒントを示し与えられるものであります。しかしこの重要なる芸術の導きはどの様な門人にも同様に教え分つことの出来ないものでには一ヶ年の稽古をされた方もあれば、十年の研究を積まれた人達もあり、自然技術に於て格段の相違があることは当然であり、初心者に難しい問題を教えても到底理解することは出来難いものであります。ここに於てその先生はおもむろに門人の技巧の上達する頃を見斗って、難しい技術を譲り受ける素地の出来た頃をよく見斗って自分の持って居る大切な芸術のコツを譲り渡すこととなるのです。即ちこの芸術移行の状態を指して秘博を授けると云う意味になるのであります。秘博は何が故に尊いかと云うのは全くこの意味に於てであります。随って流儀の家元たる人は常に芸術最高の研究と常に新鮮なる研究を瞬時も怠ることの出来ない責任をもつものでありまして流儀は流儀最高の家元の研究を中心として常に常に泉が流の末に及ぶが如く新鮮でなければならぬものです。秘博は何が故に軽々しく許さるべき性質でないかと云えば、これは全く習ふ人達に責任がある訳で門人は常に研究して、以って流儀の重要なる研究を譲り受ける事に努力せねばならぬと申し上げたいと思うのであります。またそれと同時に教授者の立場にある人達は指導とは如何なるものかをはっきり認識せねばならぬと考えるのであります。甚だ私の立場からのみ見た一方的な議論かも知れませんが、私は常に自分自身に於てこれを官行し、私の流派の人達にもお話をして居る次第であります。秘博とか口博とかはまことに旧い言葉ではありますが、どんな新しい科皐的な研究にもそれが必ず存するものであることをよくお考え願いたいと思うのであります。(完)五回にわけて先代の「生花に就て」を連載した。終にあたってその頃、先代に習った人の実作の図例をそえてみた。絵は先代が描き与えたものである。稽古場の雰囲気が感じられるだろうと思う。連載後記仙渓6

元のページ  ../index.html#104

このブックを見る