テキスト1997
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副肉沈真向向葉アマリリス花型行型三花十三葉花器紺色粕.斗付コンポート春のいけばな展で二瓶飾りの生花を出品する場合には、枝物の主瓶に、アマリリスの大輪の副瓶をそえて華やかさをそえたりする。その場合の参考にとり仁げてみたのだが、解説の絵はvh寸真と違って逆勝手に揃いておいた。① と云っているが、稽占という言葉の意味は、「占きを階、える」ことなのである。いけばなは稽古するとはいうが、練宵するとはあまり心わない。そしていけばなを習っ場を貯志ゆとよぶが鰍机町駅とはよばない。一体稽古と練習はどこが違うのだろうか。いけばなで桜えなければならないとされる「古き事」とは、連綿として続く花道という芸道が一体何を求めてきたのか、それを燃えることではないのだろうか。では稽える場合何を手がかりに考えればいいのかというと、それは「切」なのである。「型」というのは同じことの繰り返しのように思われて、型嚇など多少軽視されているようだが、気分的に精神を点似るより、完全に砲を身につける方がずっと難しいことなのである。稽古という言葉の意味をよく知り、よく考えた上で「明」に臨み「刑k」が身につけば、そこから「刑じ」は生命を持つようになり、自分自身の求める姿を表現できるよ、つな境地に到達できるようになるのである。「型」を覚えるだけの練習で終らず稽えることによって人を知リ、花を知るようになりたいのである。稽古いけばなを習うことを「稽古する」10

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