テキスト1997
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チpぶざま黄焔三輪小閑寡民知足平天下花型真型花器焼締花瓶菊の開花の形は品格によって様々だが、一種挿で献花の場合にはこの黄菊のような端正な横安で柴帳、ぴがよく、茎のしっかりしたものを選ぶ。あり余る物を持ちながら、それでもまだ物足りなきを押さえ切れない現代の私達の生活、斤より多くの物を持てるようになったことを人々ははっきり向党しているようである。自動事も持たず、テレビもなく、薪を焚いて御飯を焚いていた時代私達は不ト半だったのだろうか。世界で最も豊かな国アメリカ。この閣は世界で円取も不満を主張する人の多い同である。官山が偏花しているせいもあるが、豊かさが裏目に山たような治安の思い人心の荒脱した国である。私の好きな「老子」の第八士章は点の花刷なので配り木は角度の狭いのを真直ぐにかけて、前から留、副、真の順序に挿して行く。「小同広民」という言葉で始まっている。この草の大意を私の思いつくままに解釈してみるとこのようになる。国は小さくて、人口も少ない方がいいだろう色々便利な道具があるとしても、西成の奥地の人達のように、昔乍らの道具で麓牛の乳でパタlを作って非らすような生活がいい。天が与えてくれるものを充分に生かして持らしていれば別に他人のものに手を出す必要はない。ただ勤勉にうまくバターを作る労刈を惜しまないようにしよう。という風にとっている。阿成も位薩のような都会化しかけているような所ではなく、もっと西の辺地に住んでいる人々の生活をテレビで見ることがあるが、可抗川な門然の中で、天の与えてくれた物を上手に使って芥らしている姿は私達よ打ふ一半せそ、つである。西蔵は中華人民共和国の領土であるらしい。だが辺地の阿蔵人はそんなことと関係なさそうである。同じ中国人だといっても、上海や広州で経湾市動を営んでいる人や、とくにそこを目指して出稼ぎに来ている人々よりずっと良い顔付きをしているように見、える。老子は「史記」によると一応孔子より年長者となっているので紀元前五世紀の人である。或は実在の人ではなく、後人がその頃の老子的な思惣をまとめた著述であるとも云う。だがその紀元前五世紀の中国にそのような思想があったことは確かであろ、っ。老子は無為自然の道を説き、人智の底の浅さを知っていた人である。今から二千五百年前、漢民族の文明の中に既に現代の疲弊した文明の騎りの徴候を見ていたのであろう。紀元前五世紀、日本はその頃純文の足るを知った、というより天の恵みを有難〈受けとっていた人々の暮らしていた時代である縄文時代の晩期に稲作文化が入ってきて食は豊かになったが方々で小さな戦争が多発しはじめた時代に入って行く。あん人類は安穏で豊かな暮らしを求めて知−Mを研ぎ澄ませ、見れば不思議な文明を作り上げてき人頒が地道な常為を積み重ねて行くのは貴いことである。だが満足を忘れた勤勉は大変危険な精神である。はないかという反省なのである。人々が地道に働いて物を作り出し、僅かな〈不刀を人に与、えられるようになれれば本虫に幸せなことだと思う。アメリカン・ドリームという言葉がある。努刈と成功との結びつきを自由の国アメリカでこそ果たせるという響きのよさがある。これも普立に満ちた小成功である場合はまだいい。止め度のない成功欲はいつの間にか支配欲に変わって行く。そして遂には地球さえ喰い寵くさないでおかないような支配欲を抱くようになって行くのである。五年前「ゾウの時間ネズミの時間」とい、っ本が出た。ネズミとくらべて何倍も長生きする象も、生きがいという尺度から見れば、物型的な時間の長さとは関係なく同じように充実させて一生を終るのだそうである。物余りの時代、西成の人達の一見貧しそうに問ザえる一生の、?ちの喜びの深さ、幸せの総HMと先進岡の人々の生涯に味わ、2辛福度はどちらが大きいのだろうか。トaた他の生物から私達がその素朴な生活を見て羨やむのは賛沢、或は騎りであると云う人もあるかもしれないが、それはそうではなく際限なく泣かさを求めるうちに何か大きなものを失ってしまったのではないかという不ム女であり今のうちに無様にふくらんだ欲望に歯止めをかけなければならないので足るを知るということをつくづくと感じさせる昨今である。7

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