テキスト1997
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久よヨちんさん吊旧e+介三守的EV亀烏瓜昔私が車種守の山内に住んでいた頃、晩秋になると庭の竹薮に枝から枝へ蔓をからませていた烏瓜が、小さなオレンジ色の実を小さな提灯のように述らねてぶら下がっていた。別にとり立てて美しい実ではないかもしれないが、毎秋薄暗い竹薮の中で明かるい色に実っていると、いつの間にか季節の風物として心待ちするようになってしまっ。そして問十年以上たった今でも烏瓜を見ると、その頃の家の周囲の物音や空の色、秋風の肌触りや落葉を焚く匂いが昨日のことのように蘇ってくる。何となく見ていた植物でも、その季節、季節の姿が心の中に積み重なって行くと、その植物に出逢うと条件反射のように様々な想い出を喚び起こされる。昭和二十二、三年頃までは、京都はまだ本当に静かな町だった。烏瓜の色付く頃、秋風にのって京都駅のアナウンスが東福寺の家の庭まで届いてくるぐらいだった。東福寺の紅葉の季節になっても山内は関散としていたし、どこの名闘に行っても一人でゆっくりその雰囲気にひたっていられた。学校が休みになって京都に蹄ってくると、そんな所を次から次へと歩きまわっていたがお蔭で京都に残っている日本の良さを幾分か知ることができた。私がいけばなを始めて立花や生花という宵典的なものに先づ芯かれたのもそんな所に理由があったのかもしれない。烏瓜がいけられているのを見て感じる忽いは人様々だろう。一瓶のいけばなによって喚び党まされる怖感の幅は、色と形に還元できる絵や彫刻より広いのかもしれない。表紙の烏瓜に稲がそ、えられるとその幅は広がり、菊に彩られると、そこに品位も加わ灼企かな感興を誘ういけばなとなったようである。花材烏瓜1菊灰色粕花瓶花器〈2頁の悠何を入れるのに使う、という用途を考えて造られた績ではない。誰かが喜んで使、っかもしれないこんな器を造るのは祭しい仕事に相違ない。私も暇をつくってこんな物を次から次へと考え出してみたい。これを買ったストックホルムの店には他にも自分で造ってみたい品が沢山並んでいた。直径ωωほどあるので、いけようと思えばいくらでも盛りこめそうである。作例には童旦の大粒の梅擬を使ったが、いけ上がってみると、まだもっと挿し加えられそうな余裕がありそうである。だがこの辺がいけばなとして適度な封だろう。鉄の能2

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