テキスト1997
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最近若い世代にスポットを当てたいけばな展が増、えている。出品者の年齢の枠を比較的若い世代に絞った形で、生け花のこれからを指向するいけばな展である。そのいくつかに出品し、又テ!?などの企画段階からたずさわらせていただいている。父などの世代までは流儀を超えて自然に仲間が出米て「何か今まで伝ないものをやってやろう」というグループ展や研究の会が幾つかあったらしいが、私達の世代ではどちらかというと保守的になりがちで、よくおとなしすぎると言われてしまう。そんな中での新世代の花展は、京都大阪を中心に大勢のファンもできて、いけばな展の出品を楽しみにする人、現代の若い人の花に興味を抱いて毎回見に来て下さる人が増えてきている。今から十一年前に大阪の新世代のいけばな展に出品を始めた頃、花を集めたり、自分で山へ眠ポを取りに行ったりして、じっくり考、えた末に立花を出品したことがある。その時他の流の先輩の先生がビールに誘って下さり「立花がほんまにやりたいんか。もっと新しい花にチャレンジしたらどっや。今やったらどんな変な事して失敗してもかまへんのゃから、今の内にいろんな事し新世代のいけばな桑原和則とかなあかんで。」と言われたが、「今自分がしたいのは古典なんだからしかたないじゃないか。」とその時素直に聞けなかった覚えがある。でもその言葉のお陰でその後できるだけ占典花から離れて、自分に出来ること、白分がやりたいこと、自分にしかできないことを保して今日に至っている。その聞に心は隙々に指れ動いてきた。特に他のジャンルのもの作りの先生の考え・万に触れた時などは、分円身を見つめ直すことがしばしばある。特に焼き物の作家の先生が「僕らが上を形にして一つの作品にするというのは、そのものに命を与えることやと思ってる。」っしゃられたときに、至極当たり前のことなんだけれど、大事なものを見つけた思いがした。生け花は、花がそれ自体生命である上に、それを切り再構成することで成り立っている、細工や技術というものが前面に出ず、根本的に花の命の美しさが前に出るべきものなのだと思う。枯れた素材を扱っても命は表現できるし、どんなにきれいな花でも無神経に扱われていると見ていてもしんどい。古典花や、日頃の投入や盛花の稽」内の延長線上にありながら、その構成の仕万、美しく見せる技術と精神を身につけたいと思う。〈6頁万年山Hト一葉生花和則作〉と熱くお円6

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