テキスト1996
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したれや軍一雪が積もる、気温が下がって暗い雲が空を覆いつくして日が暮れる。ノナ供の頃、明日の朝、中ーが績もっててくれないかな、といつまでも窓の外を眺めていた。そんな想いは今でも消えていない。雪国の人にとって雪は厄介なものかもしれないが、私には雪は美しい七に色々な栄しみを与えてくれた。此頃白引に子ーの梢もる日は随分少なくなった。だがこの久、\年末に降ったり止んだり珍しく雪が三日も続いた。もともと通りから奥まった私の家は静かなのだが、子ーの日は的かさが一層深まる。時折庭木に績もった雪の落ちる音が聞こ、えるぐらいで、矢鱈と走り担る機械の無達慮な物音はどこかに吸いこまれて、まるで速い背の平安京の夜をとり戻したような感じのする夜だった。平安時代から江戸時代が終るまでの静かな京都の街で人々は雪の日をどう感じて過ごしてきたのだろう。京都は氷山北と治南では気温の差がかなりあって治中に小雪の降った日は洛北は雪に覆われる。現代のように家屋が密集せず、走りまわる機械が道路をふさいでいない頃の京都の雪鼠色はどんなものだったのだろうか。多分雪は今よりも、雪を美しいと見る人の心にも、雪を厄介なものと感じる人の心にももっと深くきざみこまれる冬の目だったであろう。雲町かわという語句は漢和昨典にのっていないので多分日本で作られたのだろう。勺に月や花と同等の自然の美しさを感じての造語で、春は花、秋は月、冬は雪という表現なのだが、夜半雪が降り止んで、い月が出て、その冷めたく冴えた光に照らされた亦悼の色をご覧になったことおありだろうか。降り結…もった白雪に月光が反射すると、椿の赤がかわるほど明るくなる。雪月花が一つにまとまった美しさなのである。そういうや1呆色に山逢える機会は多くない冬の花で降る吉を想い起こさせるのは今月号では枝垂柳に臓ろA7梅ばい。積もる雪なら雪折葉をまじえた水仙、に押しひしがれた仙戸、竹の枝も勺の重みに耐えている。クリスマスローズが先日の雪の聞から花をもたげて如何にも糸、の花でございますというような顔をしていた。いけられた花から保々な内然が想い浮かべられる。法楽した枝垂柳の細枝の曲線は幾何学的に美しいのではなく、窮まじりの北風に揺れる姿と結びついてこそ私達の感情も揺れるのであり、水仙に勺折葉がまじえられたのを見て大寒の苧節の思い入れも深まるのである。たまにいけ上げた花の上に綿をのせて雪のように見せかけているのにca雪者一宮聞から真丸2

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