テキスト1996
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の時期になって、いけられる状態ではなかった、ということがよくある。自分の周凶にある花は、平素よく見つめておいて、自分の花ごころを育てる組としておいて、もしその花がいけばな展の時期に最高の状態であれば進んで使うべきである。大切に育てた花なのだから、その化のためにも、一番美しいときの姿多民uさんの前に披保するのが思いやりというものではないのだろうか。いけばな展を開く場介、とくに私達のようにそのいけばな展を主宰しなければならないので、花屋とは綿密な打合わせを何度も重ねる。だがよく花屋と「どの李節のいけばな展でも、欲しいと思う花が、完全に揃ったことは、まずないね」と話し合っている。花は季節に従って咲く生きものである。引払達のいけばな展に合わせる気持は持ち合わせていない。う金属の上に、越の実という生命体そういう不確定な要素をふ知の上で出品作を考えなければならない。もし自分の予定していた花が揃わなくても、その場で柔軟に対応して行くようにすべきなのである。よく身えてみれば、一瓶のいけばなをいけtげるということは、向分のいき万の紡図であるとも兵えそうである。立にそわない条件が多数入りこんでくるが避けることはできない。折角向分の人生にとりこもうと思った物や人でも、その時点にうまく加えられないような場合は、そっと脇に控えてもらっておいて、本当に必要になったとき、改めてお出まし願えばよいのである。要するに柔軟な対応と、広い見聞をま茶から心掛けておきたい。〈表紙の花〉二作並べたり立は、十一月に京都大九ミュージアムで開催された・新世代いけばな展・の後期展に出品された、右側小泉慶哉氏、左側秦慶久氏の二作である。お二人の男性は和則の社中で、いつも和則の出品作を手伝って下さっているのでお圧に立志はよく疎通し合っているようである。小泉さんの万は、直径回ミリぐらいの鋼管初本の上に起の実(迎合)をつけたものだが、その初本がきっちり垂直に立てられている。銅管といがつながれているが、つなぎ目も細い銅の針金で丁寧に処理されたので異質なもの同上の奇妙な一体感が生じている。集まった垂直一線の緊張感と注台という自然が作りtげた捕物の不思議な融合だとも孟え、表現しようとする柄物の生命感の一面をよく計算していけtげられた一作である。左側の長さんは以前(九九二年3

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