テキスト1995
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日付えいけばなの誕生した室町時代、人々の物の身、ぇ方、経済もふくめた社会生活は現在私達の暮らしている社会の状態とは大きくかけ離れていた。従って何のために花をいけるのかという理由も現紅のように自分の側性をいけばなで表現しようという事ではなかった。それは当時宮廷や大名家に仕えていた同朋衆の中で、花をいけることを職分としていた人が此人を迎えての饗応の席を格式に合わせて飾るためにいけたのであり、主人の意にそう花でなければならなかったし賓客の心象をよくする、というより難癖をつけられることのないいけばなであることが条件付けられていた。当時のいけばなの伝占を見ると、こういう場合には、この花は使ってはいけないとか、いけ方にも機々な禁止事項が’X佐に多い。それが当時いけばなのあるべき姿として当然の事の様に受け入れられていたと考えられる。主人の立に従い、賓客を・7汗ばせ大過なく送り出せるいけばなであることが花をいけて行く上での大きな命題だったのである。だが現代とは異質な造引理念でいけられた花がつまらないものであったかというと、そうではなく、長朴ではあるが自然との交流が頬笑まいけばなと時代背景う人の「ルネッサンスの芸術家工房」術(いけばな)を生み出した社会は、(いけばな)について抱いているあしく表現されているのが遣された僅かな伝書の絵からも感じとれる。永享二年、立阿弥の将軍義教醍醐の花見に際しての座敷飾にどんな趣向の花が立てられたのだろうか。立阿弥は長株二年に綿一.セ川氏に進上された草花を立て花にしたそうだが、そのものの安絵は残っていないが、当時の花伝書から想像すると植物の自然を素朴ではあるが、上品に字節の風物を詠みこんだような詩情さえ感じられる立て花だったようである。文明八年には将軍義政が立阿弥に水仙と悔を立てさせている。慈間…与(銀閣寺)の東求堂が建った頃であり、当時の花伝占には「草木心をくふうしあやまりなきように立べし」とあるが、「μ」という字を使わず「心Lと書いているところに自然草木に対する心的をおしはかることができる。花をいける時の造引理念は時代と共に変化して行くが、草木に対する心情はその後も変らず、いけばなは自分自身の向然観の表現として多機に形を変えて現代に至った。昨年の末、ブルース・コールといという本が出版されたが、その前占きを借用すれば「ルネッサンスの芸現代の我々が生きている社会とは全く異なっていた。今日我々が美術れこれの観念は、おそらくその殆どが、当時の人々にとっては全く埋解できない伶嚇であったに違いない。.・・・中略・・・・・・それなのに実際に美術の歴史を勉強している学生達や、彼等の学んでいる占物の多くは、ルネッサンス時代の芸術家の作品(初期成は江戸時代のいけばな)をとり上げる際に、それらがあたかも初世紀に生きている我々現代人の鐙貨のために作られたものであるかのような論じ万をしているのである。:・中略::・私には、ルネッサンスの絵や彫刻(宅町・江戸時代のいけばな)について考える時、それらを当時の社会環境や制作状況という文脈の中に置き直してみれば、もっとバランスのとれた基本的な埋解が符られるのではないか、と思われるのである。」現代の私達が宅町時代にタイム・スリップして将軍家が天皇家を招待し饗応の花をいけるよう命じられても、その場に通用するような立て花は作り得ないだろうし、反対に同朋衆が現代のいけばな展のいけこみ会場に突然時代をこえてつれ出されたら一体どうその場に応じようとするのだろうか。だが時代によっていけばなの置かれている社会的背景や条件は違っても、変らず人の心を打ついけばなは存在し続けている。それを支えているのが私達の市木に対する心情であり白然観なのである。9

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