テキスト1995
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られるような数刻を過ごしてくるようなことも大切である。先日朝日新聞にある評論家が「美」について、という文章をこうしめくくっていた。美とはどういう事なのかという一般用論は成り立ち難い。しかし確かに美の経験というものはある。何がその椛験の特徴だろうか。おそらくそれは、異常に密度の高い一時の幸一削感としか一ぶい憾のないものなのかもしれない。と書いている。「美しい」ということは国によって、又時代によってその評価はまちまちである。レオナルド・ダ・ヴインチについての評価も「画聖レオナルド、その作品こそは絵画を定義する」という考えと「甘い通俗性の元祖、何の興味もないLとするアンケートが半々だったと一九五0年代のフランスの美術雑誌に出ていたそうである。芸術作品に対する評価、それは人それぞれによってまちまちである。だがその人の心の中に内叱する何物かと共鳴しあうことがあったとき、その作品に感動を党えるのであろう。その評論家はこうも語っている。ある初夏の午後、フランスの麦畑の中を通って訪れたサンリスの教会の美しい内陣、窓外はおだやかに起伏する麦畑と森、友人の目は涼しく、そのフランス語は耳に快野生の秋草く響く。突然私の中で美しい自然と人と建築が一点に集まリ、分かち雅く融け合わさったのはその時である。忽ち来たり忽ちLるモ悩の瞬間であった「美」という一一τ口集はん伝説しにくいが、そういう王制の一瞬を与えてくれるものが「美」なのだろう。私だって夕日をぼんやり眺めているだけではない。庁楽や美術作品に心を奪われることもある。白分の立花にうっとりすることさえある。但し欠点には目をつぶっての上での話である。八表紙の花〉花材栗赤まんま(赤のまんま)花器魚龍住むのに程よい広さの都市には、今でも一寸出はずれると野草のつつましやかな花が咲いている。亦まんまもその一つである。化付事典には切花として花屋に出まわることはない、と占かれているが、少し公のきいた花屋には手節になると店に少UMだが並べている。他の秋作円トの花といけ合わせてもよいが、作例のように業ととり合わせて、ざっくりといけてみると、誰の心にも郷愁を呼び起こす一瓶となる。そして床の間にでも飾ってみると、3

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