テキスト1994
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やおよ勺ず夏草交挿花型行型花材対此wmm陀庶同地花器削麻竹三つ窓花活け兵夏には、繁り過ぎた校物北村よりも、夏草の花や、はしりの秋草を軽くいけて飾りたくなる。その季節には、二、三、五、七種と色々な草花を集め、それぞれの出牛の姿を向然な感じになるように役所に振り分けてまとめ上げる。作例の場合では、草丈が鉄線撫子淡紅菊ωでから使い、花穂の垂れる岡虎尾は内副に向いている。二輪付の淡紅菊は花を前後に使えば胴は一本で胴と胴の沈みが作れる。三輪の鉄線は留、総問、留め沈みとし、控は留の誌に合わせて撫fを群がらせてみた。lyぐらいになる女郎花を真に高く廉のかかった風通しのよい部屋の床の間に飾ってみると、夏の生花として素直な一瓶となった。神今偽年の祇園祭りの四条通ストリートギャラリーいけばな展には、八坂神社(祇園さん)にすぐ近くのお店が当たったので、ついでというのは神様に失礼なのだが、久しぶりにお詣りしてきた。祇園祭りには浄妙山を繰り出す私の町内は歴とした氏千なのだが、ル品川段は八坂神社よりずっと遠い上賀茂神社にお詣りに行くことが多い。別に神様を選り好みしている訳ではなく、上賀茂神社の方が京都の四季が洛北という閑雅な地に美しくまとまっている所為か、お詣りに行くと優雅な気分に反れるのが楽しみで何かにつけてつい足が向いてしまうのである。夏は早朝、春秋は夕暮、冬は日射しの高い時刻、大徳寺の境内を歩いたり、清水寺の舞台にぼんやり恕うことなく件んでいるのも好きな一刻の過ごし方である。帰りに一寸御本堂の前で手を合わせるぐらいのことはしている。私の宗教感覚はごく微弱なもので、僅か乍ら俳朴古希求型でもある。いわば平均的日本人の宗教観を抱いている一人なのである。ただ少し偏っているのは、都会的な四季が||この場合、自然というより四季といった方が良いように思、?ーー歳月をかけて美しく磨き上げられた神社や仏間に行くと、割合無心に神仏に手を合わせられるような気がする。若い頃、私も一神教的な宗教的態度を正しい宗教観だと思っていた。一応仏教徒だと思っていたので、周囲の人がクリスマスを祝うのを苦々しく思っていたが、此頃ではキリスト教徒でもない人が、キリスト教会で結婚の式を挙げるのも微笑ましく思、えてきた。もともと日本人は、総ての神、神道の八百万の神様も、仏教の諸仏や近世に入ったキリスト教の神も格の上下はつけても絶対的な唯一神というものを認めていなかったのである。だからこそ、結婚に際して神の前で愛を習い合うにしても、宗派よりも、自分の好みに合う雰囲気の方が場所として大切なのである。一神教的な宗教観は、戦争中に天皇をぷ俳ぃ一%川として崇め奉つた時代を想い起こしてしまいそうで私にはなじめなくなってきたようである。4

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