テキスト1994
115/146

すU花と人と::花と人との間柄、私のように毎日花をいけ、そして花はどういう風にいければよいのかを与え、それを人に伝えることを仕事にしている人。花をいける人のために花を作っている人。その花を買い集めて売る人いヲ令。花をいけるのではなく、花作りを趣味にしている人。その外側には周囲に咲いたりいけられた花をただ慢然と眺めているだけの人。そのυ人外側には花には無関心のように比えるアマゾンやニューギニアの奥地に住む人達がいる。だがこの人達は花に無関心というより、植物を最も自然に受けいれている生活、植物との共生状態といえそうである。考えてみれば、その辺が人間と植物との按も良い関係なのだろう。私達文明人、とぶっても地球上には文明人以外の人矧は段ad平;や1%未満の少数になっているそうだが、その恥達は木から降りた抜として原始人の生活を始め、絶、えず進化の方向に歩み続けてはきたものの、未だには帆物的自然に離れ難い郷愁を抱いて暮らしているようである。私が花をいけることを仕事とするようになってから、必要に迫られて作物から得た知識、人から聞く話、花をいけ続けるうちに比たり感じたりした様々なものが何時の間にか大分たまってきたようである。花と人との間柄、いけばなに定義を与えるのは難かしいことだが、私のいけばなは、人間の、それも文明人のけ然への凶耐という気持が大きく働いているようである。私というものが存在するのも、私より何百世代も、或は何万世代の前の祖先が素直に生を享受していた頃の平和、といっても自然はとても厳しかっただろうし、もしその頃の人に非らし具合を聞けるとすれば、「どうも汗しい生活ですな/」という答えが返ってくるかもしれない。私は原始の人聞の純物との共生している特らしを干和と夢想しているのに過ぎないのだろうか。文明人として私達の先輩の中国の文人画には広大な山水の画面の中に木々に固まれた質素だが風格のある小さな家がマッチ箱ほどに掛かれ、その中で豆粒ほどの人物が楽な姿勢で読民回していたり非を打っていたりする姿が抗きこまれている。私にはそれが同然に溶けこんで暮らしながらも知を愛し、詩心を忘れず遊び心も忘れない文人達の閑雅な生への愛情だと感じられる。ところで文人画は士大夫配ともよばれ士大夫は昔の中国の支配階級であり央大な資産会肴し、その時代の文明を自由に・4受できた階級である。云ってみれば文明人のトップだった3

元のページ  ../index.html#115

このブックを見る