テキスト1994
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3頁までの作例解説は4頁へ教養というものには広い文化的な知織が法盤となっていることは確かない下である文化的な知識が一点に集約された場合、それは学者や芸術家、或は科学技術者となる道が見えてくる。実業家や政治家もその中に入れてよいのかもしれない。だが文化的な知識が一点に集約された場合、それは惇門的知識であって、それは品位とは直接結びつかない知識ではないのだろうか。咋門的知識とその経験というものは、広い文化的な知識と椛験の上に立・っていないと独善的な人松山になりやすい傾’川を持っている。自分の仕・事の社会的責任を果たすためには咋門知識は必ず身につけていなくてはならないのだが、それだけのものではなさそうである。生きて行く上に必要な知識経験だけでは物足りない、何かもっと他にありそうなものだという好奇心、知的好奇心と云ってもよい。それが教養を育てる大きな原動力になっているのではないだろうか。好奇心によって拡がって行く知識は少しずつ何凡をとり除き、独筏門的な処世観に山川ハい川が持てなくなる。その段階が所詮知識人のうことなのだろう。だが知的好奇心が大きく働き続けていれば、知識の基盤は拡がり続け、それぞれの仕事に対する惇門的知識にも深みと磨きといがかかって向皮な常識が持てるようになれるのではないのかと思う。教養を高めることによって得られる効能とは一体どういう事なのだろうか。私流に解釈するなら、それは自分自身と、周固め人々に歓びをもたらすものであって欲しいと思っていヲ令。そして質の良い教養は精神的な漂泊によって自分自身への自由さを感覚し、衿悼と酒脱と平路さが生まれ、生への美しく強い歓びにたどりつくのであろう。人々は身辺の維がの中で生きており、日分の努力が半ば空しいことも知っている。だがその中で生きて行こうとしている。優れた川手告や去術家も法本的にはそういう世の中で非らしているのである。従ってかなり優れた人でも、もし向分がそう思いこみ、人もそう信じこんでいるほどには人格や品位は高くないものである。だが人聞は若いうちに、これ、という大命題にとり組んでみることもなくてはならない。そしてそれに打ち込んでいる過程で生まれてくる知的好奇心の拡がりを大切にしたいのである。生きている間の八卜年、その聞に人間の持っている思かさや引きに気付きながらも、反面具えている高此さと美しさを実感できるようになるのが教養というものだろ(、勺ノ。3 ωき

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