テキスト1993
79/145

閲鋭的作例の価値を再認識したい。それは私達の一年のサイクルの中に生き続けているものなのである。作例は夏の社志の株分け挿しである。挿法、花型については度々解説しているが夏なので花は葉より高くなっている。夏(図③)四季咲種の杜若は五月上旬に初花が咲き二番花が六月から九月にかけて咲く。この二番花の出生め姿を写したのが夏の杜若の花刑ヒで、最も生長力の充実する季節なので花数も多① く葉組も花に準じてふやす。この時期には春の初花の名残として実が見られるが低く咲いた花の実として留に短く挿すのもよい。一長く伸びた葉は左右になびき、花・:はこの時期葉より点く生長する。花の状態から徐々に生長力が衰え、丈高く結実した夏の花茎より低〈秋の花が咲く。ものが出はじめ、夏花の実を高く真、見越などに挿し、中段以下に秋咲きの花を配る。き秋の花の実が枯葉と共に残る。べての杜若が正確にこのように季節によって変化して行く訳でまなく生秋(図④)最盛期をすぎて、九月に入ると残葉はやや垂れ下がり先の黄ばんだ冬(図⑤)初冬に入ると数少ない花は低く咲以上が杜若の四季の概略だが、す育地の立地条件や、その年の気候によって変化の仕方は少しずつ相違するのは当然のことである。生花の約束事は一般的な立地条件下の平年を基準にしているのだが、杜若をそのような姿にいけることによって、逆にその季節の到来を感じとる縁ともなるのである。花に季節があるように、というものがある。この話を進める前に、左の杜若の生花二作を見較べて頂きたい。図⑥の方は昭和八年、三十三才だった父の切行した生花図集におさめられた春の杜若生花図である。図⑦は昭和五卜四年、七十九止の時作った「専渓生花百事」の中で春齢の花の杜若をいけた生花の写真で、⑥と②を較べてわかりやすくするため私が線画に直したものである。父が生花を始めたのはまだ子供の頃だったらしいが三十頃にはこんな流胞な花型を向在にいけていた。そして晩年には見違えるように変化している。この変化をどのように考えればいいのだろうか。父の生花が変りはじめたのは七十止を越して、花道家としての歳月が六卜年を過ぎる頃のことで、一見稚拙とも見える生花を好むようになってきた。には齢それは花道家として誠実に生きてきた証であり、いけ花を達観できる境地に近付いてきていたように思える。父自身がそれを自覚していたかどうかわからないが転機を迎えていたことは確かである。花に季節があるよ、つに人にも歳月が季節として巡って行く。それを素直に迎え入れる叡智は大切なものである。或る年令に達したとき、それまでに成功や失意を重ねてきた不出来な自分を優しくみつめて微笑むことができるようになった時、思いがけない自由な境地に入ることになるのではないだろうか。私が齢の花というのはその年令になってこそいけられる花という意味である。父がそこに行きかけていたのではないかと晩年の生花を見る度に想うことである。先月号で、いけ花とフラワーデザインとの差異を考えてみようとしたが、絶対的な異質性が発見できれば事は簡単なのだが、差異といっても相対的なものであって一方にあって片方には欠除しているという要件は見当らないのではないかと思う。例えばいけ花には精神性があってフラワーデザインにはそれがないと思いこみたいところだが、皆無とは云いきれる訳がない。むしろフラワーデザインには異った精神性が充分具わっているのにそれを見逃しているだけのことではないのかと思う。その場合比較されなければならないのはヨーロッパ人と日本人の自然観や宗教の違いということになる筈である。二十年ほど昔モナコの首相官邸で染付の水盤に流木に少しの花をあしらったものが飾られていたのを見た。ヨーロッパ人の自然観を町一昨見せるような深みが感じられた。多分日本のいけ花の影響はあったのだろうが求めている精神的内容は日本人とはやはり違うようである。結局は彼我の相対的な差と共通項をよく知った上で、今まで育てられてきたいけ花の大切さを守る事である。フラワーデザイン−パ−斗jJBFhalp’ l忍怒~l;⑦ { lfJ、② ⑤ 5

元のページ  ../index.html#79

このブックを見る