テキスト1993
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L−t134 穏やかに晴れわたった、けれどもまた寒のもどりがやってきそうな春の日に、お家元ご夫ぃ長を青谷梅林にお迎えいたしました。その日は割合に岐かく、梅もほぼ満開で、やさしい春の光とともに楽しいお花見の席をご一紡させていただき、とても光栄に存じました。京都市内から南へ約二トキロ下った城陽市の最南端にある青谷地域に、京都府下最大の梅林である青谷梅林はあります。京都と奈良のほぼ中間になり、この周囲の地名は古代からしばしば文献に登場していました。権林の起源は定かではありませんが、梅に固まれて大西慶徳後醍醐天皇の皇千、山一小良親王の御歌に、「風かよふつ7きの里の梅か香を空にへたつる中垣そなき」とあることから、少なくとも六百年以上の歴史をもつことになります。江戸時代には淀事王が観梅に訪れ、その行列の美しさは梅の花と相競う程であった、と伝えられています。今ではなだらかな丘陵に約一万本の梅が植えられてあります。毎年六月になると青梅の取り入れが行われ、中でも青谷梅林が誇る品種「城州白」はその果肉の厚さから、市場でも名高いもののようです。出荷される一つ一つめ艶やかな青い実は、初夏のすがすがしさそのものになっています。私の家は、何代か前までは村長として青谷梅林の振興にかかわっていたそうで、その頃の機チを他父母からよく聞かされました。梅の開花期の五十日間だけ当時の国鉄奈良線上に「青谷梅林仮停車場」が設けられたこと、「一目千本」と言って千本の梅の木を一目で見渡せたこと、など今から思えば呑気な時代の話を梅の花がほころぶ度に怯しそうに話していました。私が子供の頃には、少し暖かくなるとよく友達と梅林の背後の山へ遊びに行っておりました。辺りを走り回っては木の枝ゃいばらでひっかき俗をこしらえ、薄暗くなってから家に帰ったものです。遊び疲れて梅林を通り過ぎる時、白い廷のように群れて咲いている梅の花は、いつしか幼い私にとっては三学期の終りを知らせるものになっていたようです。そして手折ってきた桃の花ならぬ梅の花を、母が蔵から出してきたばかりのお雛様にお供えして、子供ながらに四季のひとつの区切りをつけていたものでした。風や雪に耐えてやさしく奮を膨らませ、百花咲きほこる春の先駆となる梅をこれまでずっと見続けてきました。この柔かく、そして強い姿に、私は他のどの花よりも心を寄せていると思いながら、今年はお家元ご夫妻にお越しいただけた喜びと共に、お花見の日は過ぎてゆきました。早春の花材による立花研修会今回はやイ宇都を真に使った軽く明るい立花の研修会で、次回は六月に洋花を主に講習する予定。9

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