テキスト1993
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伝統的な花村の中で、水仙は最も古くから用いられ、品格の高い草花として愛されてきた。その扱いには多くの伝本がうけつがれているが室町時代にはすでに陰暦正月の花の一つとされていた。又葉と花の高きのとり方、或は袴をどのように使うかについても立花の時代から出生を見きわめた上でいけ方が考えられてきた。そして植物学の進歩する江戸時代には出生の観察がより精綴になって各流それぞれ多少の相違があるにし411l花器胡麻竹電話ても、現花も行われている水仙の生花刑其(三株挿)花の花型が完成した。ルなものではあるが、かなりの年数生花を続けている人でさえ、流儀の教える通りにいけていても、葉を三枚、四枚と組んでいると、他の人とのごくわずかな違いが重なり、それが三株、五株と集まるといけ上がりの姿にその人なりの好みがはっきり感じられるようになる。型にはまりながら自分の出てくる所が興味深い。水仙の生花の花型は、ごくシンプたが、姉は白分で料理を作ることを始めていました。それは姉にとって料理は寂しい時を忘れて、楽しくしていられる自分の世界を作る大切な出会いだったのではなかったかと思います。姉は他にも絵を拙いたり、演劇をやったりしていて、どちらにもかなり打ち込んでいましたが、二人のまだ小さい頃から両親が仕事に駆けまわっていましたので、家脹揃って食事のできるのがとても幸せな時、という特別な感情が出来ていました。その意味でお料理は、絵や演劇では得られない家族の紳というものを持っていたのではないかと思います。姉は六角の家の老人向きの献立で我慢できなくて、一人で自分の料理を作っているときは、きっと私達のことを思い浮かべていてくれたのではないかと思います。姉が高校か大学くらいの頃、友達と一緒にお遊びの様に、毎週土曜日のお稽肯の時にクッキーやケーキを焼いていましたが、その頃は食事をお手伝いさんが作って、食べる時もバラバラだったのであまりおいしくありませんでした。そんな時、とっても姉にとっても土曜日には六角の家で一緒に過ごせ、たまには私が泊まって日曜に一緒に出かけたり祖母ゃいとことテレビを見たり出来る、忘れられない怯しい思い出になっています。水一私に1

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