テキスト1992
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今年は祇園祭りの行事役なので柏手を打って神様を拝む機会が例年より多い。八坂神社で当番行事としてお−蔽いもうけたが祭神の牛頭天王という御名前も記憶をよび起こさないと思い浮かんでこない。宗教心というのもわずかばかりあるのだろうが、回教や基督教のような一神教徒とは異質な宗教観でこの世に生きている。私も人並みに神社に詣でたり、仏様に手を合わせたりするが、基督教徒や回教徒のような祈りを捧げる訳ではない。一寸したお願い事とか決心を心の中でつぶやくだけのことである。例えば煙草を止めようという決心は家族に告げると、やめられなかったときの非難がかなわないので、あとのおりのなさそ、つな神様の前であやふやな決意を控え目に申し上げておくのである。一神教世界から見れば無宗教者として経蔑されるかもしれない。だがまるきりの無神論者でもない。日の出の美しさを御来迎として拝んでしまうこともあり、現荘の幸せを御先祖憾の御蔭と仏壇にお線香を上げることもある。ただ一神教徒のように特定の神を持っていないだけのことであり、神にすべてを束縛され神様と私ている訳ではない。私達日本人の宗教観、いい以は宗教的態度というものは一体どこに淵源がボめられるのだろうか。仏教が伝来しても占くからの神様と並行して紀られているし、儒学、もしくは儒教も日本で通用させるためにはかなリ原引とは変化したものにされている。化をいける、ということを仕事にしはじめてから、いけ花というものが世界の中で少し特殊性を持つ文化であることを感じるようになった。いけ化に関する判述にも、それに関することは書かれているが、そうなると日本という国はどういう固なのか考えざるを符ないようになってくる。いけ花の背景になっているのは日本人の自然観であリ、神観念であろ。う(。それを少しずつ考えてみた以下次号)い9

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