テキスト1992
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ふど六、七年前のことだった。阿部伊都子さんが、「桑原さん、六十を過ぎたら解放されたような、のびのびした気分になりますよ」と話しておられた。そんなものかもしれない。と思っているうちに私も還暦を迎えた。以来何となく心豊かというのか、色んなことに好奇心がわいて毎日が愉しく過ぎて行く。十代の終りから二十オ代、面白いことが一杯あった頃は、人間六十を越して何が楽しみで生き永らえているのだろうか、坂を転がり落ちるように衰えて行きながらも、生への執着だけで生存を続けているのに過ぎないと思っていた。だが歳をとるということはそれほど悲観的なものではないらしい。年令はその人の気の持ちょう一つだとも云うが、それは気の持ちょうという当てにならない対応ではなく、年令を杢直に受容できるかどうかによって生き方が随分違ってくる。今の世の中では気の持ちょ、フで若いのが良いことになっているが、老成することに人間としての価値をおいていた一昔前の中国人は、若いと云われることを大変嫌っていた。皆、気の持ちょうで老成を装っていたのであり現代から見れば不可解な年令観である。年をとることヲ令。中国人、とくに男性は老成を尚ん若さを拙うのも老いを誇示するのも良いことだとは思えない。私はただ六十五オまでに得て来た自分の人生が卒直にあらわせればそれで充分だと思っている。だが私の今までの六十五年はあまりにもお組末である。孔子は、「十五オで学問に志し、ま三十オで一人立ちし、四十オで惑いがなくなり五十オで天命を知った。六十才で人の言葉が素直に聞けるようになって七十になると好きなように振舞っても道徳を踏み外さなくなった」と云っている。誰もがこんなにうまくコースに乗れる訳でもなく窮屈そつな人生でもそれよりも私は世阿弥が風姿花伝第一の年来稽古条々で年相応の芸を語っているが、孔子の年令観よりもこの方にずっと親しみを感じる。七歳で始まる能の稽古にはそれぞれの年令に応じた芸があり、花として咲く。そして老年に到っても咲き続ける古木の花に誠の芸を例えていだが、その文化圏に属していた日本にもその影響は及んでいるが中国ほどのことはないようである。一方西欧人は人に実際より年をとっているように云われると侮辱されたように腹を立てる。ハードボイルドの翻訳小説を読んでいると、タフガイ達は三十才を過ぎると私達から見れば異様なほど老けこんだ老けこんだと嘆いている。体力が資本の彼等にしてみれば当然の嘆きかもしれないが少々気にしすぎているようである。又女性には年令を聞くことさえ失礼なことになっている。此頃日本にもそんなマナーが定着してしまったが、化粧や着こなしと態度で一体幾つぐらいの人なのか見当がつかず、豚珍漢な話題をえらんで恥ずかしくなることもある。若いうちの肉体的能力の充実した時の美しさは人聞の一生にとってかけがえもなく大切なものである。だがそんな肉体的条件が八十年という一生の間続くとすれば人生は大変息苦しいものになるのではないだろうか。とくに女性の場合一生若いままだと人生の後半はひどい倦怠感に悩まされ続けることになりそうである。先日の新聞にアメリカの女性の人生の後半の迎え方が論じられていたが、卒直に解放として受け入れ、精神的な充実を望む人と、受け入れを何としてでも拒絶しようというこ派に分かれていた。女性に少女期と壮年期の二期に変化があるということは、男性の一生が何の変化も区切もなく、ただ過ぎて行くよりかなり術張の利いた八十年だと云えそうである。だがこんな考えは、女性の深みを知らない男性なし。としての私の身勝手な空論かもしれところでここまで年をとることの意味を考えてみたのだが、私のこれまでの人生をふり返ってみると、年令によって積み重ねられた筈の財産は情無くなるほど低級で雑多なものの詰まった合財袋一つである。この合財袋の中身を資本にこれからの何年間かを生活して行こうと云うことである。好奇心のままに拾い集めた雑物ばかりなので、それをどうつなぎ合わせれば緯となって、いけ花を経としたどんな模様に織り上がるのだろう。今から五年先の七十才、十五年先の八十才。その頃私はどんな花をいけられるようになっているのだろう。七十五になって初めて表現できる花。八十五になってようやく開ける境地。それが枯淡なものになるのか、ほのぼのとした温かさのいけ花なのか今はまだわからない。世阿弥のいう年相応の芸。年に似合わぬ若い花に執着するのは愚かなことであろう。この先私の花がどうなって行くのか楽しみではあるが、やはりもう少し上手にいけられるようになりたい。そして今まで夢中でいけていたがこれからはもっと注意深く自分の芸を磨きこんで行くような訓練を毎日続けて行かなければならない。一年は足早に過ぎ去って行く。γ。。6

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