テキスト1992
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とえいたゃん’生、勺つりに実際に回転するモビールだった。竹で自転車のリムのようなものを作り、スポークめように張った糸に黄と亦のピーマンに枯葉がつけられていて、ちょっとさわっただけでふわりふわりとまわりはじめる。作られた竹の輸は山側、そのそれぞれに赤や黄のピーマンが輪の中心に糸で宙吊りに固定され、枯葉があしらわれている。ピーマンが竹の輪と一緒にゆらゆらと空中を遊泳する様チはユーモラスでさえあって見飽きない。だが作るのに大変手聞のかかるモビールである。柔軟で形の変りやすい竹の輪叩桐を宙で等角度に拡げて吊るすだけでも面倒だが、そこにピーマンをつけると微かな重量の差でバランスが崩れて傾いてしまう。多分自分の思い通りに出来上がったのだと思うが手間をかけただけの成果は自分の手に受けとめたのではないだろうか。手間いりといえば一万個のプチトマトの杭とりも大変だったらしく、四人で五時間もかかったそうである。何事によらず、自分で思いついたことに対して、うんざりするほどの手間をかけてみる機会は得難い経験を自分の心に厚く積み上げることでもあると云える。表紙のオブジェ花材プチトマト1万個花台自作(2川角)ιも言主司B刀菱混同ヨ化村竹の輪前一径lμ枯葉約ω枚2Rのモビlルピーマン亦5K 10 5個近頃、位’jA那r 芸という言葉をあまり聞かなくなった。その語感には玄人芸に対する素人芸。そしてそこに金持の道楽という感じも加わったのが檀那芸ということであろう。玄人は旦那芸を下目に見ているようで、それは当然のことではあるが、も太く葉もしっかりしている。日本の芸を支え、育てて来たのは檀那芸の持主たる檀那衆である。檀那衆達はかなり教養も高く、趣味の幅も広い質の良い観客で、芸の価値判断にもしっかりした見識を具えていた人達である。一方中国では近世まで詩、書、文、画等は文人、即ち科挙の試験に合格して大官になった人達の教養と気風を表現するためのものであり、彼等以外のプロというものは同等の扱いを受け得なかった。つまり松那芸独屋場で他の諸芸は単なる娯楽か生活用品の生産に過ぎなかった同州といってもよさそうである。中国の文化圏に属していた日本も平安時代までは似たよ、つな状態だったようだが室町時代を経て上層町衆の文化が生まれ、その階級と共に諸芸は磨き抜かれて明治でかなり変質したものの戦前までは見識を具LFν→2n,k】ι4q4 緑有郎十板色薬問二屋単楓柑水盤え観客は絶えなかった。だが戦後私達は傍目も、ナhJず働き続けなければならなかったせいか見識を失ない、低俗な芸を無抵抗に受け入れるよ、つになってしまった。豊かさをとりもどした現代、その復活を期待したい。ポ一に一戦は動藤科の草本で本州と四国に野生している。野生種の花色は淡紫色で少し弱々しい感じだが作例の十二単は栽培品種で花色が濃く茎野生の草花は、その場の自然の中で見る風情に、言葉では云いつくせない美しさを感じる。だがそれを切りとってみると葉が虫に喰われてまともなのは一枚もなく、不足勝ちな養分が辛うじて花が咲くまで育ったという姿が痛々しいというより、うらぶれた感じが先立つことがある。野の花はやはりそのままの状態を優しく眺めとった上で、手聞をかけてのびのびと理想的な姿に育った花をいけるのがいけ花ではないのだろうかと思うことがある。作例は庭の十二単、板屋楓、跡聞に切花の苛較をそえた身近な一瓶である。花器〈3頁下の花〉「凶・五月のロータリークラブfその他での講・削より仙淡」JL3

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