テキスト1992
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前の年の十月から四月の下旬まで六ヶ月もホルの花はいけ続けられる。生花では木瓜を使わないという流派もある。木瓜には鋭い刺があるので縁起でもない花と不当に扱われたらしい。それに屈曲が甚だしいので枝の交差を嫌、つ生花には不向きな花材だったのかもしれない。木瓜の屈曲した枝を携め直して交差きせず、直角に張り出した小枝を落としてしまうと木瓜本来の味は消えて桃のよ、つになってしまう。私は生花でも木瓜の枝の交差は平気で残しているが、そんな使い方でも生花の形をかりた木瓜は強きと華やかな美しきを具えた素晴らしい花材である。作例には白木瓜と淡桃色の二色を使い、普通の場合、花瓶の口の辺りを葉の茂った花材をそえて水際のしまりをつけるのだが、木瓜の枝の強い張りを強調するため一種挿しとし暇た余労働時聞の短縮による本格的な余花材花器暇時代を控え、朝日新聞社は三日、日本人の余暇のあり方を考えるシンポジウムを・・・・・・引年9月山日朝刊木瓜の花木瓜白と淡桃色の二色白磁彫文花瓶自分の好きなこと、楽しみのために使う時聞のことを大上段にふりかぶって言葉にするとこんな表現になるのだろうか。余暇をいかに作るか、そして作り出した余暇をどう使うか。そして労働時間の短縮を重視すべきだということが議論されたらしいが、一体私達の周囲の人々は自分の本当の楽しみとしてやってみたいこと、好きなことを持っているのだろうか。勿論仕事から解放されたとき、楽しみを求めて何かに時間を費しているだろう。だが自分の人生を振り返ってみて、仕事と酒の毎日で週末はゴルフというのでは人生豊かとは云えそうにない。別にゴルフが低俗な遊びだとは思つてないが何故ゴルフがしたいのか自分でわかっていなければそれはパチンコと同じようなただ一す面白いだけの暇つぶしに過ぎないのではないだろ、っか。自分自身、何か一つ掘り下げて掴んでみたいと思うようなことがあれば人は何としてでも自分の時間を作るようになるものである。そのような時間を長い間作り続けることで人の一生は豊かになって行く。私が子供の頃祖父に「お前も人に且那さんと云われるよ、つになるには趣味の世界でも玄人とその道の会話ができなくてはならない」と云われた。深みのある人生への一端を示してくれた言葉だと想い返している。10

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