テキスト1991
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むべ語ユll堂qfノの「続・生活の発見」だったとキムヨンウンむべ温室で作られたかわいい花、締麗な洋花のネリネも初冬の郁子ととりあわせてみると、この花が幾世代もの以前、野に咲いていた頃の姿に立ちかえったような感じを見せる。複雑な交配と、完全な管理栽培で作り出された植物に、もとの自然の姿を感じきせるところにいけ花の面白味があるらしい。ところが昔読んだ中国人の本《林思う》に日本のいけ花は技巧的過ぎて不自然であると書かれていた。日本のいけ花の観点から中国の文人達の書斎に飾られた花を見ると、ただ美しいとされている花が上等な花器に無雑作に挿されているだけで物足りない感じがする。金容雲の「韓国人と日本人」の中で日本の庭園と韓国の庭園の写真を並べて「日本庭園のように手を加えた人工的自然とは対照的に、韓国人にとっては自然そのものが庭園である」と書かれている。その二枚の写真を見較べてみると日本庭園の航跡は植えられた場所に見合った形に刈りこまれ、松の姿も松は松らしく姿が整えられている。そう云われれば日本の庭園は、いかにもありそうな自然として作られた自然なのかもしれない。韓国の庭園には植木屋が手入れに入ることが郁子とネリネないのだろうか。もっと人工的なのはヨーロ庭園だろう。だがベルサイユ宮殿の庭の反自然的に見える秩序立った構成も、その規則性が宇宙の深遠な法則、云い変えれば自然の本質そのものを表現しているのであると云われれば成程それも自然の庭園なのだと思いこまされてしまいそうである。そのどれが正しい自然の表現であるというのではない。だが日本人の植物に対する美意識はかなり洗練されているのではないだろうか。それは近世に到るまで豊かな自然植物が残きれ、その美意識を背ザ文化が維持されていたからであろう。ッパの10

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