テキスト1990
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四万六千年前、花と一緒に埋葬された人がいた。イラクのシャニダlル洞窟で発見されたネアンデルタlル人である。泣休の周辺で採集された花粉の分析からん火事菊など八開の花と一緒に非られたことがわかっている。発見者のラルフ・ソレッキl博士は、彼らを「最初に花を愛でた人々」と呼んだ。−世界化の旅矢車鈎・より「人」が伎と共通の先祖から進化してきたということは、我々東洋人はダlウィンの進化論を待つまでもなく薄々感じていたようである。又最近の絞め研究では人知と紋の差は以前よりずっと納まっているそうである。技という生物は七千万年位北自殺蹴とか針臥のような食虫類という森の中を走リまわって虫を食べていた哨乳矧が地上より安全な木の上で生活するようになったのがその始まりだそうである。その後、今から数百万年前、ヒマラヤが高さ七・八千れまで隆起し地上の気候に大きな変化がおこり、熱帯雨林が疎林かサバンナになってしまった。そんな所に住んでいた抜達は木から本へ移りながらの生活が、木がまばらになったので隣の木へ移花とネアンデルタlル人ー7H8日制日新聞日叫版|るためには一旦木から地上におりなければならなくなってしまった。そして直立歩行を余儀なくされ、そこから人矧へとつながって行くそうで約二百万年前のことである。七千年を百分の一の七十年に納めて考えれば、六十八年間木の上で存らして来た猿が木からおりて人飢らしき晴乳類になってからまだ二年しかたっていないのである。その上現生人知ホモ・サピエンスが生まれたのは十万年前、前述のネアンデルタール人が凶万六千年前、現庇六卜二オの私はあと六年たって六十八止で木からおり、更に一年と十一ヶ月半以上たたないとネアンデルタール人にもなれず、日本の弥生になれるのは七十オになる一日前の午後ぐらいのところではないのだろ私達は樹上を{芥庄の場として過ごしてきた抜から人間になってまだ問もない木の上が恋しい生物なのであろ、っ。木の枝によりかかり、木の葉に凶まれている時こそが心の安まる一と時である。七千万年も続いたその判癖は、おいそれと消え去るものではない。だからこそ家(巣)の周囲に木を植え、問いかけているうちに、いけられたそれでもまだ是りずに家の中までは刷物を持ちこもうとする。それがいけ花なのではないのだろうか。人煩の巣造リの原点は刷物的門然ヲ令。であり、咲く花は、その植物の象徴として意識され、開花から稔りへの関連を知るようになって、有用性が美を感じさせるよう変化して行ったように思われる。日本のいけ花が、「美しき花をのみ賞して、ただ挿しいれたるものLにとどまらず、「草木の風輿Lをいけようとしたのは、おそらく花に対する人聞の心への正解であろう。都市に生活する人々、とくに高層建築の一主に住む人の心の一千静を保つためには白分の求める自然としての刷物が益々必要になってくるだろう。花だけでなく木の枝や葉が共にいけられていることによってはじめて自然が再構築されたと満足し、気分の安定が得られるのである。又草花だけのいけ花にも、いけ花的な自然観をもってすべ℃が構成されていれば、それはただの室内装飾ではなく、正常な心の働きに対する大切な薬でもあり栄養素でもある。いけ花を人類の発生と結びつけ、それを猿の心情の名残りと考える私の論は識者に一笑に付せられるかもしれない。だが自分の手で花に触れ、どんな花をいけてみたいのかを自分自身に花の中に、こだわりなく住みつけるような感じのいけ花を求めているのではなかろうか、と気付いたのであ私のいけ花はその辺から始まり、時には気に入った一瓶もできるが大多数は想いの半ばにしか達していないか目指す境地だけは次第にはっきりと心に浮かぶようになってきた。私がいけ花に対してどのような考えを持っているのかをまとめて書いてみて折にふれて皆さんとも語りあいたいものである。、「ノAU。

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