テキスト1990
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圃』Jというよリは陶器に近い作品をよく見かけるようになったが、ガラスの質感11一透明感HIムぱたさ一l夏場のもの、といった固定観念から脱却しようとする日本的な努力ではないのだろ、っか。私は明治時代は勿論のこと、大正時代の庶民の日常生活に使われた器具似のことを実際に見て知っている訳ではないが、窓ガラス以外は珍らしくは感じられていなかったにせよ、食器等にガラス製品はあまり使われていなかったのではないかと思っていフQ。ガラスの器が季節の別なく使われている現在の世代にしてみれば、ガラスの器に対する李節のこだわりは不可解なことかもしれない。だがいけ花ではガラスの花器を夏の器として上手に使ってきた。あまりにも、つまく使われてきたためにカラス・イコール・夏というイメージが強すぎて、冬の掃としての山仰が簿すぎるような感じである。以前冬の立花として垂柳と水仙に松をあしらって、無色透明なガラス器を使ったことがあった。私の記憶に強く残っている一瓶で、器と花が一体となって美しい冬の印象を作り上げていた。冬の風物にもガラスのよく合うものが多い。例えば越前岬の氷雨の中で咲く水仙。土のぬくもりを感じる陶の器にいけるのも良いが、それでは南国の早春を想い起こしてしまうのではないだろうか。そんなことを考えながら同じガラス器を使って盛花と生花をいけてみた。2頁の盛花は器の濃紺に配色の良いパンジーの紫と黄色をとりあわせ、黄緑色のレモンリlフをそえただけの単純で上品な小品花である。いけ花での色彩の扱いは絵の具のように色の濃淡を自分で作り出すのではなく、始めからそれぞれの決まっている花の色のとりあわせによって強く見せたり柔らかい色に見せたりしなければならない。作例の黄色のパンジーも紫のパンパンジーの小品花2百(ジ!ととりあわせることによって強く鮮かな色に見せることができるが、同じ紫色の花でも種類のちがった花をとりあわせた場合、いけ上がったときの感じは異ったものとなる。少量の花しか使わない小品花ではとくに大切なことだが、稽古の積み重ねで感覚として身につけるより他に方法のないものである。同じガラスの花器を使っていけた水仙七本の生花である。十一月の出始めの頃よりもいける本数が多くなり、株分けにするのも盛期二月の水仙で花は葉よりも高くのぴ上がる。左の図解を参考に稽古してほしい。K山,aE−主a一’・−じ43頁,4.(3

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