テキスト1990
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やまあいだいそうかんおもと徳島市からJRで南へ四十分ほどで阿am南rん。ここからタクシーで一時間近く那賀川の流れる山聞を西へ遡る。濃い緑の葉の聞に点々と色付いた岱榔や柚、青々とした秋空のでで照りはじめた紅葉の山道を辿って昏一近くに相生に着いた。高年青の里に相応しい清らかな雰囲気が漂っている。十一月初旬、高年青の山里この山里は、私達のお正月を彩る高年主同の出荷を間近に控え、葉色も最高の時期である。ところで、皆さんもよくご存知の通り、いけ花に使われる花や枝物のおそらく卯%以上が栽培植物で、野生植物はごく僅かである。多分室町時代に初めて立花が立てはじめられた頃は京都の周囲の野山に出かけて切ってくる枝物や野草に自分の家の草花のとりあわせでいけていたのだろう。時代が下って江戸時代に入ると、折からの花井園芸熱の盛んさと共にいけ花も町衆に広がりはじめて大量の需要が生まれ、その後は野生植物の出生を臨めつつ、人の手で栽培育生された花材をいけるのが今日まで続いてきている。いけ花とは野の花を花瓶の中で如何にしてその自然の姿の真髄を見せるかと云、フ工夫であろ、っ。私達に必要なのは、いける花材の自然の姿をよく知り、その上で栽培された植物の中にも息付いている自然を見定めなければならない。先代はよく岡山県の高梁川上流の高年青の自然群落の話をしていたが現在私達の住む都市近郊で野生の蔦年青は殆ど見当らない。野生に近い状態で見られるのはお寺の裏庭ぐらいのものだが病気にかかったり虫に喰われたり惨めな姿で葉色も悪くて理想的な生育状態ではない。高年青の場合、或る程度は人手をかけて病虫害から守り、少しは栄養も与えてやったものの方が自然の望みに近いのかもしれない。但しオランダから来る百合のように季節も失ったものは造花に近い。南北に山の連らなる相生の山峡は黒い紗に覆われた寓年青畑が一面に広がっている。四十軒が栽培し総面積は十一町(三三、000坪)もある。生産量は年間百三十万枚で、出荷先は名古屋より西が多く、京阪神には六十五万枚出ている。そのうち京都には十万枚送られているが最高級品ばかりだそつである。栽培品種は艇の艇が主力で関東向けの大批幹も少し作られている。都の尉は緑の葉の縁が白い品種で、立ち上がりの姿が美しく艶がある。ここで見ると、大切に育てられて本日台生百10

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