テキスト1990
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ずまいりんいろあい今朝久しぶりに以前住んでいた東山の東福寺に行ってみた。東福寺の塔頭の一華院には父の基もあり、命日にはよくお詣りには行くのだが、通天橋の紅葉時にはもっ十五年以上出かけたことがない。私が東福寺に住むようになったのは、戦後間もない昭和二十二年の早春だった。戦時中東福寺には山内は軍隊が駐屯していたそうで、あんな所にも陣地を構築しようとしていたのか本堂や山門のあたりは随分荒れていた。そして私の家のあたりが紅葉の名所と聞かされたが、楓の木は薪にでもされたのか最近のように洗玉澗の谷間を覆うように枝か張っていなかったと記憶している。そんな状態でもあり食べる物さえ不自由だった戦後の一時期は秋になっても紅葉を見に来る人もなく、一年中ひっそりした山内だった。少し秋の行楽客が来はじめたのは昭和三十年近くなってからのことだったと思う。その行楽客をあてこんで焼栗屋が店を出した時には「こんな所へも人がやってくるのかLと驚いたものである。私の父は東京で育ち、大阪で仕事をしていて神戸に住んでいた。神戸の家が戦災で焼けたので、もともともみじ時内事、楓の幹をゆすって落ちそうな紅葉を好きだった京都に住むようになったのだが、商売人的でなく文人的な暮らし方を好んだ父にとって東福寺の山内の住居を得たということは願ってもない幸運だったようである。久しぶりの通天僑であたり一帯の青々とした杉苔の上に散った組誌の十考私はそれを眺めてその美しきよりも先に掃除の大変きを思い出してしまった。父は客好きで、とくに紅葉時分は毎日のようにお客が来るので庭掃除ばかりさせられていた。青苔の上の紅葉が美しく見えるのは掃除の直後、ちらほらと散っている時である。楓の大木が二、三十本植わっていた私の家の庭では、早朝落としてから一葉残らず掃きつくしたつもりでも、後を見るともう散っている。掃いても掃いても掃きつくうたせない際限のない庭掃除だけはもうしたくない。だがその庭掃除のお蔭で庭の−」とが多少わかるようになり、植物の出生にも親しみを感じるようにもなっ又、自分の家の庭と、近くの塔頭のよく手入れきれた庭を見較べたりしているうちに震雨に霞む大きな老木と古い山門に東山の景色、四季の住いが私の心の中に深く根付いて行った。私が本当に京都に住むことを愛するようになったのは、昔は洛外に近かった東福寺に住んでいた時期が過ぎて、中京で暮らすようになってからのことであるように思う。中京の庭は東山沿い、或は西の嵯峨、嵐山の家の庭とは同じ京の庭でありながらかなり趣が異っている。中京の家の庭は、いわば床の間の延長のようなもので完全に家の中にとりこまれ、そこで完結する空間だが、京都の周辺部の家の庭は借景を使って外へ外へと向かう広がりの空間であろ、っ。中京の家々では室内を磨くのと同じ労力を費して小さな中庭を手入れする。中京に住むには絶対に中庭が必要である。仕事に疲れた目を休ませ、商売に費した心の乾きを潤してくれるのが常に変らぬ緑の落着いた色相である。中京に暮らしはじめた頃は四周が閉ざされた薄暗い家の造りをあまり快く思っていなかった。ところが住みはじめてみると保的暮らしには最適ともいえる構造であることがわかりはじめた。京都人は閉鎖的であるとはいうが鰻の寝床に表は格子という家の造りも至って閉鎖的である。ところがこの様式の家は隣近所にわずらわされることを適当に避けられる中々便利な建て方なのである。他人との接触は表の問だけで事足り奥で何をしてょうが来客には一切関知されることがない。{丞挺のプライバシーが完全といって良いほど守れるのである。そこで他家のことは一応存じませんという生活の仕方が浸みついているからこそ、年に一度の大がかりな祇園祭りには町内全員が協力し合えるのではないのだろ、っか。又私の家の周囲の住人達も五十年、八十年と住み続けているので隣近所との付き合いにも深入りせず、お互侵きず侵されずという習慣が成り立っているのも古い都会らしさであろ、「ノ京都の真中に住んでみてはじめて街を囲む自然により魅力を感じるようになったのだが、その自然は野生の自然ではなく、長い年月京都に住み続けてきた人々の好みが色濃く反映され磨きこまれた自然なのである。3

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