テキスト1989
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盲コF『ごろ〈ろ切花として栽培されている草花と、野生している草花とは随分姿形のちがうものがある。鳥兜というと、頭の中に思い浮かぶのは高山で見る、花は栽培品種よりまばらだが、山の斜面からのび上がって、しなやかな茎が風にゆれている山鳥兜である。右の生花に使った鳥兜は栽培品種真の花型だが、ひと頃花が大きく密生した背の低い品種が多く、それよりもや、形はよくなったが、この鳥兜でも行儀よく育ち過ぎたようで、野趣は感じられない。その代り紫の花色が鮮やかなので、白菊をとりあわせると上品な配色のよい生花となる。真、見越、副、胴に使った四本は殆ど真直な茎だが、よく見ればどの茎も少しずつ曲がっている。総囲その曲線をほんの少し軽く携め、僅かな曲線を利用して一瓶の生花の形を作る。とりあわせは白い花が良いと思うが、これだけの鳥兜の花の量に対しては小さな草花はいくら集めても弱いので、白菊のようなはっきりとした明るい配色の方が、この生花を引立たせてくれる。花材鳥兜白菊花器白色陶花瓶滋賀県花道協会主催七月八・九の両日開催された同展に瀬津慶定氏はととのった型の力強い槙の生花、中川慶光きんは百合と深山南天を主にした能花の秀作を出品。た通りにいけ上げてしまえるもので第十一回いけばな芸術展ヴ令。毎日花をいけ続けていると、その蔵の中には花器が随分沢山あるが、「又その花器を使うの?Lと家の者に注意されるほどよく使、つ花器と、この花器も使わなければと思って出してきて、用意した花をあてがいながら思案して、どうにも気が乗らなくて蔵へ逆戻りしてしまう花器もあ花器の世間での評価よりも、自分が好きか嫌いか、いける気になれるかなれないかに左右されるようになってくる。好きな花器の中には構造上、いけにくいのもあるが、そういう花器には何とか工夫しながら思い描いてい好きな花器ある。又誰が作ったのかもわからない安物の花器でも大切に使っているものもある。欠けたりするとすぐに心ゆくまで修理するので益々愛着も深くなる。そんなことに気がついてみると、私達の使う陶器や他の工芸品について、世間一般の評価と別の次元で花器を選ぶ必要がありそつである。工芸品としての美術的価値よりも、まず花をいけて水がもらないことが大切で、或程度の大ききの花を挿しこむ口があって丈夫なものであってほしい。中途半端に陶芸のことを知って、この粕薬の発色が良いとか、鞭輔の技が冴えているのがわかったところで、そんな方面にばかり興味が向いて、自分のいけようとするいけ花との関連が消失してしまったのではただのコレクタlに過ぎない。私は此頃稽古用の花器は別として、発表の場に使う花器は方々で聞かれる工芸展を素子と二人でまわって、お互の好みの一致するものを買うようにしている。そういう花器はお互に弾んだ気持で気分よく使えるし、いけ上がった花の長所短所を大らかな気分で指摘しあえる。近頃ようやくそんな花器がふえはじめた。兜2控烏与7

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