テキスト1989
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私の友人連中には大概孫がいる。お祖父さんも昭和生まれ、孫も昭和生まれである。三世代が一つの年号の聞に誕生したという珍しい時代である。在位年数の長かった国王は、清朝の康配…帝、フランスのルイ十四世で同時代のユーラシア大陸の東西に君臨し、その六十余年の聞に両国の黄金時代を築き上げ、共に名帝と云われている。私は昭和二年九月生まれの純昭和人間である。区別して失礼なのだが、一週間しかなかった昭和元年、そして同じ昭和二年でも早生まれの人は、大正十五年生まれの人と学齢が重なっているので半大正人と云うべきではないのだろうか。現在日本史では昭和二十年の第二次世界大戦での敗戦以後を現代、それ以前を近代と区分していて、近代の中には明治まで入れられている。その区分に従えば、私も明治・大正人と同じ近代人ということになって、現代人の息子や娘達の仲間に入れてもらえないことになる。だが私にとっては昭和二年からが現代で、私の生きてきた六十一年が二分されているとは感じていない。一頃昭和一桁という言葉がよく使われだが、それは私の誕生、幼稚園、そして小学校の低学年までを過ごした約十年聞のことである。この十年間というのは現在にも似た豊かな時代で、私の良い想い出はその頃に集中している。日本史の年表を見ると昭和二年に金融恐慌、昭和六年には満州事変が起きているが、幼い私には関心の持ちょうもない事件である。ただ良い服をこしらえてもらって方々へ美味しいものを食べに行った記憶だけが鮮明である。それから覚えているのは幼稚園の頃、漫談の大辻司郎というのがいたし、柳家金語楼がまだ売出中で、その先輩の落語や講談も随分沢山聞いて育った。映画も無声映画からトーキーに変る戦前のハリウッドの全盛期だった。チャップリンの映画もよく来ていたが、高級な観客には、あれはドタパタ喜劇だというのであまり受けていなかったように記憶している。気楽な時代でちょっと大きな家には女中が一人でなく、二・三人は置いていたが、裏から見れば貧富の差が大きく、現在のように一億総中流意識で暮らせる時世ではなかったのである。私自身はその年頃良い方に属していたから有難い記憶ばかり残っているが、もし悪い方に生まれていたら、昭和一桁はとんでもなく不愉快な十年だったろう。昭和六年と九年の東北の飢鐘については、聞かきれでもよくわかりはしないものの、恐しい話として憶えている。このような豊かな一面の裏に暗きをかかえて昭和一桁が終る。小学校三年生の時支那事変(当時日中戦争のことを北支事変土議事変とよんでいた)が起こり、担任の先生が陸軍少尉として出征し、すぐに戦死してしまった。暴れん坊の一年生だった先生の長男が訳もわからず、ただ泣きじゃくっていた姿が忘れられない。食料事情が悪くなり出して、米の配給制度がはじまったのは昭和十四年で、米の代用食も最初はうどん、次に芋とだんだん落ちて行く。旧制中学に入学した年はまだよかったが、昭和十六年十二月八日、第二次世界大戦に突入してからは、みるみる、っちに生活程度は悪くなり、その後十年間まともな食べ物にありつけることがなかった。中学校の授業も二年生まではややまともに続けられたが、まず英語が敵国語ということでなくなり、それまでなかった農作業が正規の課目として登場し、校庭を掘り起こして芋作りをさせられ、秋には人手の足りなくなった農家に勤労奉仕として稲刈りに行かきれるようになった。もっと戦争がはげしくなると、勤労奉仕でなく、勤労動員という名目で、登校せず工場へ毎日通わきれ、づ令。中学校では結局礁に授業も受けず月給を日円もらう身分に変った。そんな時世になると、毎日空きっ腹をかかえて学校で授業を受けているより食事を充分に与えられる軍需工場に通っている方がずっと有難い。われていた。盤で機械の部分品を作らせてもらってる方が面白かったのだから具合が悪い。妙なもので、その頃覚、えたことが今になって時たま役に立っていに大学は祖父代々起った慶嬉義塾に進学したのだが、戦後は占領軍に日土口の校舎を接収され、三回の校舎で予科(旧制高校)も本科(旧制大学)も授業を受けていた。焼け残った校舎はひどいもので、机も椅子もない教室もあり、休講も多く、とても大学と云える状態ではなかった。当時はまだ生活必需品のすべてが統制され、配給物資以外は非合法で手に入れなくてはならず、違法な闇市が、新橋や神田にできて大繁昌していた。学校にも在学中に学徒兵として軍隊にかり出され、戦地から帰ってきた人も多く、昨日までの価値観が全く無意味になった上に、敗戦によって日本国中が貧乏してしまったので親を頼りにすることもできず何とか自分の小遣いを捻出するため、三回の山の上で、現在のアルバイト情報のような調子で闇取引(占領軍の横流し・隠匿物資の非合法売買)の情報の交換だけでなく実際に取引も行今の若い人達から見れば、まともな暮らしのできかねる気の毒な時代ということになるのだろうが、云うなれば私達昭和一桁は、親の世代の権威が全く失墜し、思想上の基準もなく混沌としていたが、一面底抜けに自由な青春時代だったのである。日本の近世の歴史をたどってみると、近世から近代への変革期には、まず明治維新をなしとげた幕末の人達を第一代とし、明治時代に入ってから生まれた第二代が明治人である。どうやらこの二代目は、初代の苦労して作り上げた明治維新という事業を発展きせ、完成させるどころか破産させてしまった世代らしい。それが敗戦である。気の毒なのは三代自の大正人で、無謀に始められた戦争で多くの命を失ない敗戦という日本の破産後は脇田もふらず働き抜いて、昭和初期以上の現在の繁栄を築き上げた世代である。日本の近世に対しては色々な見方、考え方もあるだろう。だが私は第四代の昭和人聞はこのような歴史の上に立っていることを私自身だけでなく、とくに戦後生まれの人々に知って欲しいと回ザつのである。3 もお、ま工け場にで私鋳に型はを勉こ強ししらてえいたるりよ、りせ旋ん手口昭

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