テキスト1988
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さすことしんうけそえ立花展十一月五日嵐亭延命閣京都嵐山2 ,9 ---下闊瞑に花を立てに年かとなす即。もろこしにありと聞ど法を定掟を守りて指事なし和朝には昔日••……………·とはじまる「立花時勢粧八巻」、その第一巻の序文は‘貞享五年春三月に晉き上げられている。(貞享五年ー一六八八年)されるような、或は東山文化的な簡素で端正次いで第三巻までは百十八作の立花図、第四巻から第八巻に至る五巻は初代の立花論が秘伝抄として語られ、同年仲秋吉日に刊行された。桑原一門にとって、待ちに待った出版だったであろう。故実を再検討し、自然を自分の目と学識で確かめ、その奔放な花風を裏付けた八巻は‘当時すでに‘立花を志す者にとって、前代からの伝承か動かし難い鉄則として目の前に立ちはだかり‘或は安易にそれに埋没しそうになる心の迷いを振り払ってくれる力強い著作であったに相違ない。その頃‘長足の進展を見せた植物学、花井園芸の普及を背景に‘H切なは牡丹は花王と云名を貴び方にて宗匠の外門弟の指ことをゆるさず古代は花大切なる故木を残して茎より筒に入胴に用て請副に不造立花の道理さも有べきことなり然とも近代世上澤山にて時相應なるへしといって、故実を充分理解しながら、それを切り捨て、牡丹を大きく真に立て‘請‘正真にも華やかに使った立花を桑原次郎兵衛に立てさせている。私は初代仙深の立花に対するこのような態度か好きでもあり‘又深い敬意を感じる所以でもある。「立花時勢粧」にとりあげられた立花図を見ると、花型も異色ではあるが、花器の好みにも初代仙深らしさが強く感じられる。それ以前、17世紀中頃までの立花には能楽に象徴な花器か使われていた。ところが初代仙埃が選んだ立花瓶は戦国時代の武将達の兜のような派手で意匠的なものである。おそらく自分でデザインして知合いの工芸家に造らせたものであろう。その異色な花型は古い型式の立花瓶では生かしきれない。いけ花の技術は努力によって上達することはできるが、花器に対する配慮には天分といったものが必要なのではないかと感じさせられる。「立花時勢粧」について私の感じていることを書きはじめれば‘きりかないが、この三百年各代の家元、そして門下の人々によって桑原の道統か伝えられて今日を迎えた。三百年を記念する立花展を主催する時代に家元の座を与えられた私は果報者である。高位高官の御私をこの道にひき入れてくれたのは先代十三世専淡であり、現在の私のいけ花を支えて下さっているのは一門の皆様である。この際誠にそのすべてに感謝申上げると共に今後も研鑽を重ね‘御厚情に応えたいと思つ。桑原仙深心請添(真請副)に用ゆるさItュたぉ竺てそのかみいうとうとさすあるPえ人桑原専艇流歴代家元追善会期会場立花時勢粧刊行三百年記念びも蛉釦修ふ柑社》:北石れる秒へ*益tえぽ狂り4・し奥

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