テキスト1987
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しょAい〈ぜいそ今この石楠花は、花の時期が過ぎているので、何という品種なのかよくわからないが、枝ぶりは風の強い高山の斜面で育ったものらしく、屈曲が著しい。そして3でほどしかない葉の大ききから考えると、黄花石楠花ではないかと思われる。黄花石楠花だとすると、これは日本産の石楠花の中で最も高い所に野生している種類である。クリーム色の花が七月から八月にかけて咲き、夏の登山者にはなじみ深い花だそうだが私はまだ咲いているところを見たことがない。作例に使った石楠花の枝は、風に耐えて、山肌に這つように育ったらしく、平たく横にひろがっていづ令。その出生に従えば、水平にいけるところなのだが、屈曲した枝のからみを生かして扇を開いたような形に立ててみた。菊は、白と濃紅色の大輪を、三、四十勺の長さで前の方にのび出すように挿し、水際の配色とした。石楠花の枝は平面的で奥行のない変則的な使い方だが、床の間に飾ってみると、背後の衆楽壁の色との調和のとれたいけ花となった。花材店時十仰花器高嶺の石楠花雪と菊白、濃紅色の二種貰土色横長花器歳月を重ねた古木の一枝から与えられる幾星霜もの想いをも感じとってみようとする心。実生の若木が大空目指して伸び上がって行こうとする杭叫しく吾郎な生命力。古木に教えられ、若枝に共戚T乞おぼえながら私達は花をいけているのだが、感じとった様々な気持をいけようとするとき、それを見る人々に成程、と思ってもらえるようになるまでには、辛LA抱ぼう強づよく、手の動きを修練すること。そして、自分の心に感じたことをもっ一度頭で考えることを何度もくり返さなければならない。言葉を変えて、手で感じとったことを頭を通じて心に描くと云えばいいのだろうか。昔からいけ花で大切に教えられてきたのは、こういうことなのだろうが、わかっていても中々理想通りの心を持って花に向かいあえるものではなく、私自身、いつもいけ上がった自分の花を見て面映ゆきを感じていづ令。頭と心と手が歩調を揃えて高みに登って行ってくれれば申し分ないが大抵の場合頭だけが先に進んで手と心がおくれる。或る人は手だけが先を行くかもしれない。この一二つの調和のとれた生長は、人としての生長でもあろう。み古木,由ぎ』?' 4

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