テキスト1987
58/147

すべチューリップの花は、その咲き終りの頃も案外美しいものである。とくに最近輸入されるようになったオランダのチューリップは、葉は使いものにならないが、これまで日本では切花として売られていなかった品種が多数見られるよ、つである。作例に使ったチューリップは、地色がピンクで、花弁の織が白く鋸の刃のようにギザギザしている。J化のブリュlゲル。ともよばれているブランドル(ベルギー)の画家ヤン・ブリュlゲル(一日イ弓ftるそ。ろそだろか初ら鰹新が緑店のに頃並にびなはるじとめ、てもいっの絵の中にも作例に似た品種も描きこまれている。そのチューリップを、少し大型のボンボン入れにいけてみたのだが、下の方の本体になっている器にガラスの砂を入れ、蓋を反対向けにして、その臨みをさしこんで安定させ、そこに剣山を使ってチューリップをきしてみた。咲き終りの頃のチューリップは、茎も弱いので短く切り、花をマッス状にまとめてみた。花材チューリップピンク・紫花器切子ガラスボンボン入れこの一文は、四月六日〈よみうり・千里文芸サロン〉での講演の概略を要約し、チューリップ『花と暮らしの中から』づ令。何か大切なことを忘れているので毎日花をいけ続けていると、時々花を色と形だけの、物を作るための徳の材料としてしか扱っていないことに気付いて、はっとすることがあある。目に青葉山ほととぎす初鰹、という句はよく知られている。私は育った環境のせいか、初鰹を味わうことに根深い愛着を感じているのではなかろうか、と魚屋をのぞきに行きたくなる。そして初鰹が食卓に上がると、想いは新緑の山、渓流、幼稚園時分過ごした東京の祖父の家に盤台を担いでやってくる魚屋の声、牒気な神田祭の記憶と果てしなく拡がり、大袈裟に云えば生きている喜びにひたれるのである。もしも、そんな想い出の積み重ねがなかったなら、折角の初鰹も唯の刺身に過ぎない。又鰹がどこでとれるものやら、あのスピード感の溢れる体型で水の中を疾走する美しきを想像することもないだろう。そういう気持を、一つのものに対する思い入れというのだろうか。思い入れがあれば、そしてそれが深ければ、物はだんだん胞の物ではなく私の近頃考えていることをまとめてみたものである。なってくる。はじめの方で、何か大切なものを忘れて花をいけていることに気付いて、手が止まると書いたが、多分その花に対する思い入れを失っていたのだろう。花の心をいける、という云い方、日本画の方では竹を描くには竹になれ、とも云われているようだが、あまりにも漠然とした禅問答のようで掴みどころがない。それよりも色々な物事に対する想いを深め、美しい記憶を厚く積み重ね、自分の心を大きくふくらませて行く道を私はとりたい。ひょっとすると、私の心が大きく拡がり、高く積み重なれば、その時花の心にふれることができるかもしれないし、竹になれるかもしれないけ花の古い伝書を読むと、まず感じるのは花に対する想いの深きであり、生ある花に抱く共感の気持である。それが形に表されていけ花となったのである。そこに書かれている形のとり方、大切な花を上手に使う術は、貴重な経験として身につけたいが、それと同時に、何かをよく見つめることによって感じはじめる美しさの深みを知りたい。いけ花の先人も云ってみれば他人に過ぎない。他人の云ったことを鵜存みに、その通り考え、云われるままの形を追つだけの花を.いう的I6

元のページ  ../index.html#58

このブックを見る