テキスト1987
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白梅朱い4し%まえ花器塗角瓶江戸時代の後半は、いけ花の歴史の上では生花の時代である。いけ花は多分子供でもいけられるような単純で素朴なものから始まったのだろう。初期の立花にはまだその面影が残っているが、次第に理屈がつき構成も複雑となり、元禄時代その完成した姿が見られるよ、つになった。立花が宮廷から庶民の聞にまで広がりはじめると、A寸昨尻は逆に単純化の動きが出てくるのは当然の耐仰といえそうである。だが単純化といっても、で鍛えられた日本人のいけ花に対する感覚は原初の形に戻ることなく、更にその理論と構成はきびしくなり、今日まで残される生花の型をそなえるようになった。徳川時代後半は、それまで文化の中心だった京大坂とは別に、江戸にも独特の気風を持つ文化のできた時代で、上方とは別個に生花の流儀が見られるようになった。江戸風の生花は、他の芸能一般と同様に粋さをその持前とするようである。例えば上方の義太夫節に対する新LAr内Jい節山Lのような東西の違いは生花においても表れ、京大坂の生花は骨太な重厚昧を具えていたのではないだろうか。近年東西合同の生花展の際、はっきりとはしないがそれを感じる。優劣とは別の次元でいけ分けてみたい課題である。一旦立花7

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