テキスト1987
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土ど記L(七三三年)に−記されているふ・i1u た〈さ人Sすたのふめマ。4。カトレアと牡丹はよく、どちらが花の女王か、とくらべられる。だがカトレアが、原産地の中南米からヨーロッパにもた‘りされたのは日世紀になってからのことであり、その後何年もたつてから日本に輸入された花である。そして戦前からその名前は知られていて、商品名や、店名にも用いられたりしていたが、実際にカトレアの花を見た人は、とくに花に関係の深い一部の僅かな人だったようでそれにくらべて中国西部原産の社丹は、はじめ薬草として栽培され、随時代(6世紀末)には早くも観賞用の品種が出はじめ、次の唐時代には花王の地位を得ている。日本には遣序侵が持ち帰ったのだろう。奈良時代の終り頃かみぐさが牡丹のことであるらしい。そして「晴蛤日記L「枕草子」(九九三年)には庭に植えられ、その中国的な風情も描写されている。いけ花にはその約五OO年後、「仙伝抄」に、卯月、ぼたん、あおくさ三つ、ひとつは葉おはく、なく。と、始めてそのいけ方が教えられる〈表紙の花〉花材カトレア水仙の葉「出a’’雲風(九七二年)や二は葉すくようになってきた。その後立花を経て、生花、現代花にも様々ないけ方が考えられ、それが伝承となって今日に至っている。文学、美術、工芸、その上いけ花内でも、その美しきを生かす工夫が堆く積み上げられている社丹に対して、身近な存在となって日の浅いカトレアは、その豪華な華麗きに上下の区別はつけ難いとしても、カトレアの方が伝承の重みが少ないだけ、いけるに際しての気楽さが感じられるのではないだろうか。だがいけ花の山市匙は、その時代新しく手にする花に対して随分慎しλ重%44だったようである。牡丹は花王と誌名を品目び、高位高官の御方にて宗匠の外門弟の栴こをゆるさず。古代は花大切なる故木を残して茎より切。筒とされていたものが然ども近代心L請A−−添吋ぞえに用ゆるは。世上津山にて時相応なるべしと考えて、社丹を高く、真に使うようになるまでには相当な年月を必要としたようである。私達は、カトレアの原産地の野生の姿も知らず、交配され、大量に栽培化された品種を大して考えもせずただこのようなものとしていけているが、せめて温室で育っている姿だけでも、一度でいいから見た上でいけるべきだと思っている。にUM。胴に時て請副にね館。アリウム・ギカ。ンテウム鉄砲百合大谷渡りιら花器黄土色柑水盤5

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