テキスト1987
33/147

あみ〉わか品い。た花への噌好をもっていた日本の庶民ではあっても、生産力の低い時代には、直接食料の足しにならない花井栽培は、高位高官の富裕階級のものでしかなかった。花井園芸文化は上流階級から庶民にまでひろがるということで、実はいけ花にも大きな影響を与えているのである。庶民が花井園芸を趣味とした場合、上流階級のように手入れは雇人まかせではなく、自分で植え、育てた花を自分で観賞するというところに大きな違いがある。立花が生まれた室町時代の花井園芸文化はまだ宮廷周辺を出ず、立花に堪能な阿弥衆が貴人に奉仕していた時期である。そこでは草木の出生の自然より、貴人の好みが尊重きれ、政治的社交の場を作り上げる一助として立花が用いられていたと云った方がよさそうである。その当時の花墨田には笑いたくなるような禁忌が多く、まるで、花のいけ方べからず集のような観さえある。ところが花井園芸が庶民の手に渡った元禄時代になると、草木の観察の層のひろがりと共に深みも増し、自分のためにいける花として、出生の自然にさえ背かなければ良いという気風が根付いてきた。又この時代の本草学(植物学)の発展ということも見逃してはな私達の初代冨春軒の立花は、この時代を背景としている。立花という一つの型を尊重しながらも、そこに自分自身の植物観、更に自然観を、考えること、見つめること、感じとることによって自由に表現する道を示してくれたのである。人間のためのいけ花の発祥したのが元禄期といっていいのかもしれない。5

元のページ  ../index.html#33

このブックを見る