テキスト1987
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必ずま討とニ室町時代の狂言「泊和和」の一節に、「京男に伊勢女というて、女は伊勢の名物でおりある」と述べ都でよいものは京男としている。同じ室町時代の狂言「右流左止」には「京女のよき冶うなを、つれづれの酒相手に:::」と出てくる。「京女」という言葉が使われだのはこの時代からだそつである。この同時代に使われ出した「京男」と「京女」をくらべてみると、当時京の都では、男性の方が女性より格好のよい存在とされていたようである。だが京男がもてはやされたのは、その一時期だけのことで、平安時代から現代に至るまで、他国の人々は京女のみを讃美しつづけてきているようである。何故そういうことなのか、その理由を考、えてみたい。多分それは、室町時代という時代は日本の文化の大きな転換期であったことに理由が求められるのではないのだろうかと思う。平安遷都にはじまる京都の文化は、公卿に組織された貴族社会によって作り上げられた文化であり、代までは多少の曲折は見せながらも、その担い手は変っていないので大した変質は見られない。平安時代の末期になると武家が台『京女』そして『京男」室町時頭し、政権は武士の手に渡り、武家政治の時代がはじまるが、文化の上でもその担い手が交替期にさしかかっている。「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接晴れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本の歴史は十分だと云っていいのであります」(内藤湖南l応仁の乱について|)と云われる通り、応仁の乱を境に世相は一変してしまった。焼野原になった京都の再建に当ったのは新興の武家階級と商工業者を中心とする町衆達であった。先日のNHK「京を支える女たち」の中で森谷魁久先生が、東男と京女という言葉に含まれる意味について、「建設途上にある都市においては、力強い男性を必要とし、又それに応ずる男性が存在した」というようなことを云っておられたが、応仁の乱の後、京の町は再建途上にあったわけで、新しく表面に浮かび上がって来た男性は逗しく頼もしい武家と町衆だったのである。だからこそ、この一時期《京男》という言葉が社会の表面に躍り出たのであろう。京の町の再建が終り、安定期に入ると、もつ《京男》という言葉は聞かれなくなってしまう。森谷先生は「都市に安定した文化が続くと、都市そのものの性格が女性的になってくる」と云っておられたが、室町時代に新しく芽生えた文化は、応仁の乱の後、戦国時代、安土桃山時代を経て江戸時代初期にはすっかり京の町に安定し、定着し、お説の通り女性化した都市になっている。京女の時代の到来である。では一体京女とはどういう女性を指すのだろうか。京都の女性といっても、精神的にも肉体的にも他都市の女性と全く異なっているわけではないが、相当多くの点で少しずつ違うことは事実であろう。私の考えている京女とは、次の条件をそなえている女性達ではなかろ、っか。但しその美点を全部兼ねそなえている女性はいないといっていい。京女とはこうあってほしいという願望に過ぎず、美点もその裏側には欠点をはらんでいる。まず第一に、京都で一つの家業を最低三代以上続けてきた家系に生まれた女性であること。第二に、先天的な容姿の美醜にかかわりなく、自分の美しさを発揮できる女性であること。第三に、聡明であること。それは健全な知性をそなえた感受性の豊かな女性という意味である。第一条件にあてはまる現在京都に在住する女性は昔よりも、人口比において少なくなっているだろう。だが三代以上京都に住み続けた両親を持たなくても、京都で生まれ育った女性は、子供の時分から京都人の生活感覚の影響を強く受け続けて生長し、本来の京都人よりも、京都的特性を色濃く身につけ、京女の中に入れるべき女性も相当居ると云えそうである。ところで何故京都に三代住みつくことを京女の第一条件にあげるかというと、三代ぐhわいたたないと、京都的な都会感覚になじむことができないというのがその理由である。京都は平安建都以来一二OO年の歴史を持つ古い都市である。応仁の乱以後その文化は大きく変質したとはいうものの、平安時代の文化遺産は大きい。そこではぐくまれた都会的な生活感覚には美しい面と共に嫌な面も多分に含まれている。次号で、こうあってほしいと思う《京女像》を書き続けてみようと思っている。4

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