テキスト1987
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い「。恒一定父を鋭らなくては、とはじめて感じたのは、昭和二十一、二年頃ではなかっただろうか。父は慶謄のラグビーの名スリークオ|タlパックだった。敗戦後の暗い世の中だったが、何かのきっかけで、慶磨と三高の超OBによるゲlムの目論見が実現され場所は三高(現京大)のグラウン大正末期の名選手ばかり集まってゲームがはじまった。東大路に沿った三高のグラウンドは砂地で、タックルするには余程の出血を覚悟しなければならない。それでも久しぶりにボールを手にした喜びに全員ひたりきっていた。多分加分ハlフではなかったかと思う。前半の加分は、戦中戦後のきびしく乏しい暮らしを重ねてきた親父達も案外元気だなと、楽しく見ていたが、後半戦がはじまって間もなく、慶麿がうまい攻めを見せはじめたかな、と思っているうちルーズになったが、すぐボールが出て皆が走り去ったあと、一人だけ寝ころがっている人がいる。誰かと思ってよく見ると父だったびっくりして弟と二人で場外にかつぎ出すとき、軽い船島俸の失神から目覚めた父が、照れくさそうに私達た暦〉わ1レい。にウインクしてくれた。その頃父は五十才を少しこしたばかりだった。私達には遠く遥かな存在だったが確かで頼りになる理相援を描いていた。のびてしまった父に感じたのは失望ではなかった。そこではじめて父に対して限りない親しみを感じたのである。子供が親を一人の人間と見られるようになり、自分自身の存在を知ることがいわゆる親離れなのだろう。それから四十年。すばらしい機会を与えられながら、今までの暮らしをふり返ってみると溜息が出てくる。それでも一応私は今年還暦を迎える。年をとったというより、いような恥ずかしいような変な気持である。良い父、そして良い先代と、二人の父親に恵まれた私に、遅蒔きながら確かな親離れ現象がおこってきた嬉し10

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