テキスト1987
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はととぎすはおす昌え伺ころ〈さはおずさしろり’へどうまとまりがつかないことがある。そんな場合花型が悪いのではなかったかと形をかえてみようとするが、大抵の場合色彩計画のまずきにその欠点を見出すことが多い。いけ花では昔から花型という言葉はあっても、色彩に関してはそれにあてはまる言葉がない。平安時代の十二単は何色かの色彩で構成されているが、その配色にはきまりがあり、それぞれ優雅な名称がつけられていた。、調じい花の色そのものを手にとりながら、いけ花の配色に関して微妙な云いまわしのないのは、どう考えてもおかしなことである。表紙には、豊かな秋の実りの多彩きをいけてみたのだが、中央の濃い紫色の葡萄の房が、左のマスカットの淡緑にひき立てられて生き生きとした艶を肢っている。又明るい空の色に映えるギリシャの白壁のような色の花器もこのとりあわせの大切な要素であろう。花材葡萄巨峰マスカ花器酷挺も狗尾草も説明の必要もないなじみ深い草花である。近頃では商品として売れそ、つな花はすべて栽培され、栽培されると開八3頁の花〉ット鶏頭杜鵠草白色陶水盤花期が自由にす‘りされて私達の季節感が次第に失われて行く。哉培業者から、かえりみられない狗尾草のような雑草をいけていると、秋の野の風物が自然と心によみかえってくる。そこにはチ供の頃からの記憶が、つず高く積み重ねられており、美しい花、立派な花よりも、名も知らぬ路傍の草にどれだけ深いかかわりをもって過ごしてきたか、いつの間にか手をとめて想い出をたぐっていたりする。殿築は自然に伎をのばしていたときの姿をとらえ、狗尾草は胤になびくように、そして白龍騰でその根もとをつずめる。花材狗尾草酸紫白龍謄花器陶白色変刑L花器綴刺と生長しはじめた草木を花材とする春のいけ花は、はなやいだ明るさに満ちている。そして夏の聞にたくわえた生命力が秋に結実する。秋草をいけるというと、わび、さび、或ははかなさを表現するようにうけとられかねないが、植物の一年を見る場合、実りの秋が最も力強い季節でもある。実物が出そろう十月は、とりあわせにも充実感のある花材をえらんで、その生命力のあふれる植物の自然をいけ上げたい。秋のいけ花U3

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