テキスト1987
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」ゆゐじ,eAY宮中地いその日の日本列島は快晴で、真夏の太陽が、敗戦という惨めな事態をうけいれるには、およそふさわしくない明るさで、カッカと照りつけていた。昭和二十年八月十五日私は土佐の海軍航空隊の基地にい階級は海軍二等飛行兵曹。兵籍番号も憶えている。呉志飛の三七五九回。年令は十七オと十ヶ月。現在の学齢でいえば、高校二年生の夏休みにそんな日に出会ったのである。予科練として一年、同期生達も少しは海軍の人間らしくなってきたのではないかと、それぞれ自分では思っていても、「戦争が終った/」と報らされて、思わず「へえ|、勝つためか/・」と喜んでしまうような幼い連中の集まりだったのである。その日から私の戦後も始まった。復員(帰郷)してすぐ学生に戻ったのだが、当時の三回の山の上(慶応義塾の所在地)は度々の空襲で大半の校舎は焼失し、残った教室をフル回転して授業が続け加われていた。両親の家から通学できる者はまだ少しは恵まれていたが、下宿住まいの連中は長時間配給食糧の列に並んだり、食べ盛りの我々は当然の不足分を東京近郊の農家に買い出しに行集終了。五十人分を目的にて採る。重たすぎて持てず。急坂道を転ぶこる。花と葉百本ばかり捨てる。をしつつ大休止。岡まで急行す。七時に駅に着く。七時廿八分早岐行に乗る。九時五十八からず。山上、霧にして花のため大かなければならなかった。{永からの仕送りでは食べて行くだけがせい一杯で、少しでも遊びの小遣いがほしければ、敗戦直後はまだアルバイトのような気楽な働き口はなく、占領軍の横流し品や、不正ルートで出まわる品物を売買する闇商人の片棒を担ぐより他に手はなかった。私達にとって何ともひどい時代だったが、両親にも辛い毎目だったろ昭和廿二年七月拾八日(金)午前三時起床、五時廿二分発京都駅、七時凶十分近江長岡肴春開…迄徒歩、登山口にて九時、五合目にて十一時重禽それより更に登山、九合目にて擬宝珠採集す。この日天候曇、下は晴。三時頃採と六、七昨弓身体も花も泥んこになやっと五合目慶場に帰る。荷造り下山、登山口時計所にて六時、長分京都有この日温度中等にて、さほど苦し伊吹山変よき日であった。四十年前、敗戦直後の先代専渓の稽古花材採集日記の一頁である。この記録は昭和幻年5月口日から昭和幻年8月初日まで、「演の幸Lと表書きされたこ冊の深刻な食糧難で、米や野菜の増産に追われ、農家には花井栽培の余裕のなかった当時、自分の納得できる花材でいけ花を教えたいと思うなら自分の体力で集めなければならなかった。この日の記録には、他に金梅草、総緋輩、僚配転等を捻ってかえり、翌日日の稽古に使っている。そして百点満点の心地よい花材だったのに、お人のお弟子さんのうち日人も休んだのを残念がっている。花材の採集地は伊吹山の他に、吉野山、比良山、牛尾山、六甲山、東山、北山、西山、保津川、安曇川と毎週稽古日の前日に出かけている。桑原家には多くの家伝書が産されているが、父のひたむきな気持が、読む私をしっかりとつかまえて離さないこの二冊のノートは、他の何よりも大切な宝物である。先代の山歩きはそれ以前からも年季が入っていて、草花や樹木の生態を実によく知っていた。だから古典的で約束事の多い立花や生花をいける場合でも、古くからノlトに克明におさめられている。の伝書のきまりに無批判に従うことはなく、実際に山や渓で見たこと、感じたことを自分の花としていけでした。父のいけ花に対する強い自信もそ「山の幸」、こから生まれ、深く根をおろし、枝葉をひろげ、人々の心にしみある花に育って行ったのであろう。「山の幸」、「渓の幸」の記録は何度も読み返している。だが伊吹山だけは登ったことがなかった。以前から一度訪ねてみたいと思っていたところ、和則と楼子がさそってくれたので七月の末三人で出かけることになった。父の通ったコlスをたどり、近江長岡の駅から春照村を通って登山口についたが、三合固まではリフトができていて大変楽になっている。もっそのあたりから小葉擬宝珠Lや撫子が所々に咲いており、大葉擬宝珠群落、五合目からは大きな猪しし独う活どが多くなる。七合目からめ・たか々と小ノが見られ、下町草が所々に現れる。頂上では下野草が一面に咲き、東の斜面には擬宝珠の大群落を見た。この日出あった花は、か部革、勝勝郎の島、伊関慌の島、釘鋭い川毅、伊撚跡最等の山草のうち、名前のはっきりわかっているものだけでも叩種以上もあった。今では伊吹の山草を印人分も切って帰るなどとても許されることではぱぎは三合目で前記の他にない。だが方々の山で花材採集を続けていた敗戦直後の数年間は、いけ花と共に生き抜いて行こうとする父にとって最悪の時代であったとしても、その経験は貴重なものであったろう。この記録の最後に「此節身辺多忙のため切出しに行けず。残念に思う。四月七日」とある。この時代父は自分の身体で自然を、そしていけ花を感じとったのであすろう。何もかも乏しく、人の心も荒んでいた当時の世の中から父は後年の豊かで華麗ないけ花の養分を期せずしてたくわえていたのである。たきL夏、勺ノ。,向’

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