テキスト1986
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ところで人聞は木からおりた猿だということである。木からおり、本足で歩くようになって、頭脳も発達して、樹上生活とは縁がきれたように見えるが、祖先の血は争えないものである。例えば私達がどこかで猛獣にであったとして、そのときどうするかと質問したら、「木の上に逃げる」という人が大半をしめるだろう。それは未だに木に登る能力をそなえている猿の末場ゆっ‘商えいだからではなかろうか。他の動物の末葡だったのなら闘うか、鹿のようにただ走って逃げて行くしか思いつかないはずである。樹上の績は豊かな緑にかくれ、満ち足りた表情で安心して暮らしている。そこが安住の巣なのである。人間もその昔の樹上生活の本能から抜けきっていないようである。だからこそ巣箱の中まで生きた植物を持ちこもうとするのではないだろうか。離れたところにある植物では安心しきれないのである。身体にふれる近さに植物があって、はじめて安心して物も考えられるし、心のゆとりも生まれてくる。そのうち人聞の地上生活も安定し植物を安心の象徴として巣箱の中にとりいれるようになったとき、いけ花が生まれたのではないだろうか。木からおりた猿は長い原始生活を苦闘のうちにすごし、ほっと一息つけるようになって、はじめて本来の積の本能にたちかえったように私は思うのである。そして人間は身体の栄養源として野菜を大量に消費しているのに、心の栄養源として植物の用い方が、消費という形になるのを悪いとは言えないはずでちる。ただ無闇に使い捨ててはいけないということを知っているからこそ、その最も有効な使い方としていけ花の知恵が必要なのである。花をいけることは決して人聞の思い上がりでも賛沢でもない。花をいける上で多くの理屈をつけることもできるだろう。だが一番大切なのは、いけ花によって、心のやすらぎが得られることなのである。午後の日ぎかりに、この原稿を警いていると、寛の水音だけが静かに聞こえてくる。聞くともなく聞いているうちに、居時りしそうになって、はっとする。水溜めの前にいけた萩と鉄線が時折り風にゆれている。八月はこの辺の商家も少し暇なのだろう。開けはなしておいても割合静かに真夏日を送っている。かけひ11 二

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