テキスト1986
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さるとりいばらさんきらいしようりょうさいしいにわきぐさ干九Hきんぼうげ←v→JqUロRザ官狼取淡(山帰来)の実が大きくふくらんできた。乙れから夏をこして秋を迎えるまでに少しずつ赤らんで行くが、七月の淡緑色の聞は葉色もいいのでそのままいける。蔓植物なのでしっかりした丁字配りをかけ、ふらつかないように左右にひろげる。花器に落ちついたら実の美しさを見られるよう、葉をすかしてやる。芭蕉は花が終って小さなバナナの形をした実がつきはじめたものである。開花期よりもいけ花としては品よく見られる。芭蕉は大型のいけ花には葉を主体花、株どと花もつけて用いるが、小品には実だけでまとめる方がよい。は、大輪の鉄線や、為朝百合のような大型の季節の花で、葉の多いものがよい。ば私が芭蕉という植物名を覚えたのは小学校一年生の夏の乙とである。夏休中かかって読みきった「商遊記」の後半で一番面白い所は火かえ焔んると乙ろである。悟空が牛魔王の妻羅利女から芭蕉一回をうまく煽りとって肩にかついで帰ってくる挿絵を見ると、他の頁の挿絵にもよく怖かれている大きな庭木の葉である。それなら近所のお寺にも植えられているあの大きな葉が芭蕉の木だと気がつばしよういて、わざわざ見に行ったととを思い出す。その後色々な中間の古い読物を見ていると、挿絵によく芭蕉が出てくる。大体は文人らしき人の家の庭に植えられているようである。勿論美術史の中でもとりあげられている芭蕉の絵も数々あるが、私には「西遊記」ゃっ柳斎志異」の挿絵の隅っこに拙かれている芭蕉の方が親しみ深くていい。中国原産の芭蕉が日本に入ってきたのは十世紀のはじめの乙とらしい。大体中国の南部の温暖な地方が原庄の芭蕉は、日本に植栽されても、よほど気温の高い地方でないかぎり冬には地上部が枯死し、めったに花も咲かなかったらしい。たまに花が咲くと、仏教で三千年に一度咲くという優うど曇ん華げの花と混同され、多くの人が見に集まってさわいだという。又日本では庭忌草の異称がある。仏書に「乙の身芭蕉の如し」とあり青々とした大葉も破れやすく、秋には無残に枯死するので民家の庭に植えることを嫌って(忌む)乙う名付けられたらしい。芭蕉の乙のような一面を中閣の画家も描いているが、中でも除じよ漕いという人の蕉しよ石うぜ栴きば竹いち図くずという絵は、枯淡を通り乙して陰惨さを感じる。暖かく、のんびりした中国南部に生まれた芭蕉は、南宋以後、北の方ヤっ。から移住してきた文人達にとって、身近に南国的な植物が見られる乙とは大きな喜びだったにちがいない。だが北限に近いところでは、夏の問青々とした大きな葉を豊かにひろげる芭蕉も秋が深まると無残な姿に変って行く。そ乙に文人達が詩や絵画の対象となる感慨も生まれたのだろいけ花では室町時代にはすでにその扱い方を記した書物が残されているが、江戸時代初期の「立花時勢粧」には、桑原半兵衛の芭蕉を真にした立花図が残されている。又江戸時代中期になると、当時の画家や学者の間では、中国の文人の影響を・つけた文人いけ花が流行したが、その中に芭蕉もとりあげられている。又その流れをくむ盛物には木彫の芭蕉の葉型の大盆がよく使われている。現在ではあまり一般的な花材ではなくなったが、芭蕉に代って同じ芭蕉科のへリコニアがよく使われるようになってきた。南太平洋の明るい美しさはすでに私達には身近な地域となっている。現地で自分の目で見た花を家でいけられるという幸せな時代である。花材猿取茨別名山帰来(百合科)鉄線白、紫(金鳳花科)芭蕉(芭蕉科)淡緑粕花瓶芭蕉ん山で牛魔王と芭蕉一扇のとりあいをすざれ似取茨と芭蕉の実のとりあわせに5

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