テキスト1986
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あくせく同1hて私達は生活のために走りまわっている問に、いつの川にか円.(夫のn己を忘れてしまいそうである。迫われるように忙しく暮らしている時、ふと一体円分は何を求めてとんなに艦艇止りまわっているのだろう、と何ともいえない淋しさを感じる乙とがある。正常な感覚の持主なら誰もが何度も’ハ分に問いかける事柄である。単に乙の叶一にん止きているだけでは何か欠けているということには気付いている。そしてそれは凶民全体が一つの目的に向かって進まざるを得ないような戦乱の時代、或いは飢餓状態の貧困な環境の中ではあまり強く意識する乙とを許されなかったのを私達の年代の者は経験してきた。そんな気持がポだに心の奥肢に残っているせいか自分の本業以外のことに生きがいを求めるのが判となく後めたいように感じる人が多いのではないかと忠う。そして仕事一筋に生きるととによって人格が完成できるよう陀思いこんでいたのではなかろうか。私達以上の年代の人達はこれまであまりにもくそまじめすぎる比き方を強いられてきた。社会における自分の役割|学生、会社員、主婦、学者その他色々ーを喜んで来たすことが唯一の美徳であるとされ、それに縛られているのを不審にも忠わなか泰平の逸民った。勿論自分の役割に責任をもつのは大切な乙とに変りはないが、自分のAr一人作が選んだ仕事のためだけにある、或いはそれに搾げるというと、えらく川一宮内なことのように官ってしまう。だが人川木米の姿を考えたならそれは起しい思いちがいである乙とに気付かなければならないω柑端に一点に集中した生き方の最もいい例を、象徴化された宮本武肢に見ることができる。なりふりもかまわず異件も叩ほざけ、たとえ美しい流れを見てもそれを剣技を磨く上で何かの糧とするよう心がけ世評をものともせず勝ち抜いてきた。だが完成に主って彼は何をねたのであろうか。仕官円(大名家への就職)をねがったらしいがど乙にも受けいれてもらえなかったらしい。彼が偉すぎたからではなく人間として何か大きなものが欠けていたからではないだろうか。後世の人が彼の若件や絵、或いは伝聞をもとにして作り上げた人物像は大したものであり、彼を敬遠した大名家側の方に器の大きさがなかったか、或いは銃砲が抗日放し剣技がそれ程必要ではなくなった時代のせいで仕官の道がとざされたと言われている。だが式土が万をさすのをやめたわけではなく、依然として剣技を磨くととは武士たる者の大切なたしなみだった筈であ自分の役割、或いは人生の目的を私はwl然なことだと思う。それはり、その道の優秀な指導者が全く不必要になったのではない。彼が剣から得たもの、というよりは人を打ち殺す方法をきわめる乙とによって得た人格というものは斗時実際に会って話を聞いた人にはとてもつき合いかねるような印象を与えたにちがいない。掛端にいえば一一舶の欠陥人間のよう花見えたかもしれない。一筋の道をきわめるという真撃な生き庁にも大きな落し穴がひそんでいるようである。本分という言葉がある。学生としての本分、社会人としての木分、母親としての本分。水分とは、その人の守るべき本来の身のほど、身分という意味で、本分以外の乙とに手を山すのは人の道ではないととのように考えられ、LA分以外のことでも多少本分の役に立つ乙とであれば大目に見られるという考え方が日木ではつい先頃まで支配的であった。だが社会の経済成長や、個人の時川にもゆとりができてきた今日、に私達はつい乙の川まで本分をつくすだけで精一杯、毎日を駆けぬけるように生き、常に人生はその先にあると思って脇目もふらず、ただ勝ち残ることを人生の成功だと考えてきた。衣食住はすべて働くためだけにしか存花しなかったとユ一同っていいだろう。そして成功をかち得たとき自分の人生に人と共に裂しく諮り得るサ’42‘円HVそP、、ハuこで「何か趣味を持ったら」とべき何物もなかった乙とに気付く。私達の得た虫かさは単に経済上のものだけでなく時間|労働時間の短縮と寿命の延長|の上にも及んでいる。ようやく自分の人生というものをゆっくりと見つめなおす機会に恵まれたのである。そ乙でどうやら仕事の上での成功と、人生としての成功とは別物らしいことを感じはじめる。仕事に打ち乙んでいれば間違いなく人にも尊敬される立派な人生一を送れると思っていられなくなったのである。わかりやすい人爪の指針を失ったと言ってもいい。そして未だに働く場では本分を守ることを強しいられる。脇田もふらず働き続けていたのでは老後に待ちかまえているのは老人呆けの恐怖、それよりもさしせまった週末の過どし方さえおぼつかない。接待のゴルフでもあればまだ救われるというのが日本の現代のサラリーマンの状現ではないのだろうか。そ乙で「生従教育」という少し頼りなさそうな内奔の講座に人が集まり論議もされている。又男の人達も料理に手をそめ、ママさんバレーの大会、ゲートボールも盛んに行われているが現在のと乙ろそれは俄か作りの健全な暇つぶしとしか感じられいうことになるのだが、深みのない趣味は暇つぶしだと背いたい。趣味には長い年月のつみ重ねとたゆまぬ探求心が必要である。自信をもって乙れが私の趣味ですと言いきれる趣味を持っているという乙とは仕事を二つ持つようなものである。ところが趣味の世界では職業の世界のように責任の限界を示し得るものではない。果てしないひろがりの中に突入する乙とであり、嫌でも自分自身とは一体どういうものであるのか限界の中で考えこまざるを得ない。人生の盗をあるがままに眺め、平和に働き立派に忍従し、愉快に生きるには生活を如何に組立てればよいのだろうか。私達は一生懸命築きあげた産業社会の恩恵を・つけて豊かさを得ることができた。だが同時にその行きつく先を想像しておそろしさも感じている。経済上の繁栄、時間のゆとりをもてるようになった現代ようやくたった一つの目標に脇田もふらずにつっ走る乙とに疑問を抱きはじめた。そこで職業を通じての人生よりも、自分の人生の中で職業はどのような位前におくべきかを考えるようになってきつつある。趣味という乙とも職業にさしさわりのない程度というよりは、向分の一生を考えたとき今までよりずっと大きな役割を持つようになったのである。古人の自には泰平の逸民の暮らしとうつるかもしれないが、人叫に広さを求めるときそう比きざるを得ないようである。「山一旦かさと生きがい」にも芹いたよう3

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